朝、駅に着くと吐く。
最初は会社だった。二十三階、受付横の観葉植物を見た瞬間、胃が持ち上がった。次にビルの入口。改札。いまはホームに降りる前。いつからか、自分の意思より先に身体が動くようになった。それが怖かった。
七時四十三分。女子トイレの一番奥。鞄をフックに掛ける。吐くものはない。朝食をやめて三か月。薄い胃液だけが出る。口をゆすぎ、鏡を見る。クマはない。肌も荒れていない。昨日、美容院で切った髪。
「疲れて見えないようにお願いします」
美容師は笑った。
「全然疲れて見えませんよ」
誰から見ても健康だった。自分でも、そう見えると思った。だから余計に、なぜ吐くのかわからなかった。
LIFEが震える。
《今朝のコンディションを確認します》
睡眠六時間四十八分。深い睡眠、正常。心拍、正常。血中酸素、正常。体温、正常。前日の歩数七千八百二十一步。夕食二十時十二分。アルコールなし。カフェインなし。
《身体データ上、急性の異常は検出されていません》
知っていた。会社でも病院でも同じだった。異常はない。ない、と言われても、吐いている自分が残る。そのずれが、毎日、少しずつ彼女を削っていた。
会社はよい会社だった。少なくとも、人に説明するときはそう言った。大手IT。社員一万二千人。在宅可。フレックス。育児支援。介護休暇。生理休暇。メンタルヘルス相談。社内カウンセリング。ハラスメント通報窓口。心理的安全性研修。ウェルビーイング推進室。食堂では塩分、糖質、脂質に加え、推定血糖変動まで表示される。照明の色温度は時間帯で変わる。集中用の個室。サイレントエリア。二十三階から東京湾が見える。晴れた日は遠くまで見える。だから嫌いだとは言えなかった。言えないこと自体が、居心地悪かった。
上司もいい人だった。一日に一度、「無理しないでね」と言った。会議で黙り込んだとき、「今日はここまででいいよ」とTeamsを切った。救われた気がした。同時に、自分が壊れているのを見られた気がして、少し羞恥があった。翌日、人事から通知。
《休職制度をご案内できます》
産業医面談も自動設定。何もかも迅速だった。ありがたいと思った。ありがたいのに、胸のあたりがざわついた。誰かが悪いわけではないのに、自分だけが止まっている気がした。
産業医は五十代の女性。声が静かだった。
「朝、吐いてしまうんですね」
「はい」
「会社に来ると?」
「最近は、駅です」
パソコンに健康データが出ている。
「血液、胃カメラ、甲状腺、心電図。全部問題なし」
「はい」
「睡眠は」
「眠れています」
「食欲は」
「夜はあります」
「休日は吐きますか」
「吐きません」
「仕事をしていない日は」
「大丈夫です」
「仕事のことを考えると」
答えなかった。考える、がどこから始まるのかわからなかった。駅へ行く。電車に乗る。会社へ向かう。それだけで身体が反応する。仕事について考えているつもりはない。考えていないのに、身体だけが知っているようで、それが不気味だった。
「何か、嫌なことがありますか」
「特には」
「上司との関係」
「いいです」
「同僚は」
「いい人たちです」
「仕事量は」
「去年より減らしてもらっています」
「評価へのプレッシャーは」
「普通だと思います」
医師は少し困った顔をした。すぐ戻した。彼女も困っていた。うまく言えない自分に、苛立ちがあった。
「身体が先に反応することはあります」
その言葉だけ残った。身体が先に反応する。では、何に。わかれば、まだ楽だった。わからないまま、毎日吐くのがつらかった。
「休みましょうか。診断書は出せます」
「何の診断ですか」
「適応障害として出すことはできます」
できます、という言葉が気になった。病名は発見されるものではなく、使えるものなのかもしれない。そう思うと、少し安心した。同時に、どこか欺かれているような気持ちにもなった。
「適応できてないんでしょうか」
医師は間を置いた。
「そういうふうに自分を責める必要はありません」
責めてはいなかった。知りたかっただけだった。何に適応できていないのか。それがわからないまま休むのは、逃げているみたいで、落ち着かなかった。
仕事は以前より簡単になっていた。三年前まで、企画書を一から作っていた。市場、競合、営業、顧客インタビュー。夜中までかかった。いまはLIFEが下書きを作る。
「来年度の法人市場向け事業計画を作成」
十数秒で骨格が出る。市場規模。競争環境。リスク。セグメント。施策。予算。想定ROI。彼女の仕事は確認すること。数字を直す。表現を直す。言ってはいけないことを削る。言った方がよいことを足す。二週間の仕事が一日で終わる。楽になった。楽なはずだった。なのに、終わったあとに虚しさが残る。自分がいなくても回る仕組みのなかで、自分だけが邪魔をしているような気がした。
会社は生産性向上を発表した。残業は減った。離職率も下がった。従業員満足度は過去最高。
「いい時代になったよね」
同僚が言った。彼女もそう思った。本当にそう思っていた。それでも朝になると吐いた。自分の感覚が信用できなくなっていた。
ある午後、部長に呼ばれた。ガラス張りの小さなミーティングルーム。音は漏れない。部長は四十代。子どもの話をするときだけ早口になる。
「最近、どう?」
「普通です」
「普通?」
「はい」
普通、という言葉を口にした瞬間、嘘をついた気がした。本当は普通ではなかった。でも、普通以外の言い方が見つからなかった。
「産業医からは詳しくは聞いてない。プライバシーだから。勤務への配慮、という連絡だけ来てる」
「ありがとうございます」
「在宅を増やそうか」
「もう週四日在宅です」
「ああ、そうだったね」
二人とも笑った。
「じゃあ、週五でもいいよ」
「出社しなくていいんですか」
「別にいいよ。いまはほとんどオンラインでできるし」
ありがたいと思った。救われたとも思った。その日から会社へ行かなくなった。吐かなくなった。安心した。でも、どこかで不安もあった。吐かなくなっただけで、何かが解決したわけではない気がした。
三週間後。朝七時四十三分。自宅のキッチン。コーヒーを淹れようとしてやめた。パソコンを開く。LIFEが予定を出す。九時、営業企画定例。十時半、事業戦略レビュー。十三時、顧客分析。十五時、1on1。必要資料はすでに揃っている。
九時の資料を開く。要約が出る。
《本会議で必要となる意思決定はありません》
少し笑った。意思決定のない会議。珍しくもなかった。会議は、意思決定が必要かどうかを確認するために存在していた。わかっているのに、笑うしかなかった。
画面右上に自分の顔。肌の色は悪くない。九時。参加者が揃う。
「おはようございます」
「おはようございます」
「聞こえますか」
「はい」
LIFEが前回の議論をまとめる。数字が読み上げられる。各部署の状況。問題点三つ。推奨対応。部長が言う。
「異論ある人います?」
誰も言わない。彼女も言わない。言いたいことがないのではなく、言う必要がない気がした。その空白が、妙に重かった。
「じゃあ、この方向で」
二十三分で終わった。以前は一時間かかっていた。効率は確実に上がっていた。
トイレへ行き、吐いた。出社しなくても吐くのだと知ったとき、まず呆然とした。次に、少し怖くなった。逃げ場が減った気がした。
午後、LIFEの健康相談を開く。
《どのような症状がありますか》
「仕事をすると吐きます」
《吐血、激しい腹痛、意識障害はありますか》
「ありません」
《医療機関で検査済みですか》
「はい」
《異常はありましたか》
「ありません」
《身体的な緊急性は低いと考えられます》
《精神的ストレスまたは職業環境との関連が考えられます》
「職場環境はいいです」
《良好な職場環境でもストレス反応は生じることがあります》
「仕事量も少ないです」
《仕事量と心理的負荷は一致しない場合があります》
「人間関係もいいです」
《良好な人間関係でも心理的負荷は生じることがあります》
少し考えてから入力した。
「じゃあ、何が嫌なんでしょう」
LIFEはすぐには答えなかった。待つあいだ、彼女は自分でも答えを探した。見つからなかった。
《私はあなたが何を嫌っているかを断定することはできません》
正しい。正しいのに、がっかりした。
「仕事を辞めた方がいいですか」
《退職は生活、収入、社会保障、キャリアに大きな影響を与える判断です。現在の情報だけから推奨することはできません》
正しい。
「休んだ方がいいですか」
《主治医または産業医と相談してください》
全部、正しい。正しさのなかで、ひとりきりだった。パソコンを閉じた。
休職した。手続きはすぐだった。上司から長いメッセージ。
《今は仕事のことは考えないでください。戻ってくる場所はあります》
人事から復職支援。健保からオンラインカウンセリング。同僚からは《返信不要です》と書かれたメッセージ。誰も責めなかった。温かかった。だからこそ、混乱した。誰を責めればいいのかわからないまま、自分だけが止まっている。その孤独が、いちばんつらかった。
休職して二か月。吐かない。眠れる。散歩をする。平日の昼間、商店街を歩く。スーパーで買い物をする。公園のベンチに座る。老人が将棋を指している。幼稚園児が走る。宅配便のトラックが停まる。パン屋からバターの匂い。会社とは関係なく動いている時間があることを、久しぶりに思い出した。少し、救われた気がした。同時に、このままここにいていいのか、という不安もあった。
公園でLIFEを開く。
《最近のコンディション》
睡眠、良好。心拍、正常。活動量、適正。ストレス指標、低下。
《回復傾向がみられます》
回復。何に戻ることを、回復というのか。会社へ戻れることか。朝、吐かないことか。働けることか。それとも、ここで何もしないで座っていることか。答えが出ないまま、質問を入力した。
「私は治っていますか」
《現在取得できるデータでは、健康状態は安定しています》
その下に小さい文字。
《異常は検出されていません》
しばらく画面を見ていた。安定、という言葉が、自分の実感から少しずれている気がした。そのずれをうまく言えないまま、スマートフォンを伏せる。
向こうで子どもが転ぶ。母親らしい女が走る。子どもが泣く。抱き上げられる。やがてまた走り出す。泣いているあいだ、誰も子どもに聞かなかった。なぜ泣いているのか。どこが壊れているのか。いつ正常に戻るのか。それを見て、胸の奥が少し熱くなった。自分にも、名前のない何かが残っている気がした。病気ではない。異常でもない。だからといって、何もないわけでもなかった。それを誰にも説明できないことが、いまもつらかった。
風が吹く。木の葉が少し揺れる。午後四時十二分。会社から復職面談の日程候補が届く。通知を開かない。開けば、また何かが始まりそうで、怖かった。しばらくベンチに座っていた。LIFEも、もう何も言わなかった。それが、その日いちばん正しい応答のように思えた。
