最初の給料は、二十八万四千円だった。
二十一歳の彼が、それまで一度に受け取った中で一番大きな金額だった。通帳を見て、指が少し止まった。自分のものだという実感が、すぐには来なかった。
高校を卒業してから、いくつか仕事をした。倉庫。居酒屋。宅配の仕分け。スマートフォンショップ。どれも長くは続かなかった。時給は千二百円前後。夜勤に入れば少し増えた。社会保険が付く仕事もあった。社員登用あり、と書いてある仕事もあった。実際に社員になった人を、彼は知らなかった。
今の仕事には、社会保険がなかった。雇用契約書もなかった。でも、月に三十万円近くもらえた。成績がよければ、四十万円を超えることもある。何より、座って話すだけだった。楽だと思った。楽でいい、とも思った。
求人はSNSで見つけた。
《在宅カスタマーサポート》
《未経験OK》
《服装自由》
《週払い可》
《AIサポート完備》
《コミュニケーションが苦手でも問題ありません》
最後の一行が気になった。彼は人と話すのが得意ではなかった。だから、接客業を辞めた。客の顔を見ながら、相手が怒っているのか、冗談なのか、本当に困っているのか、判断するのが疲れた。判断しなくていい仕事なら、自分でもできるかもしれない。そう思った。
この仕事は違った。画面に文章が出る。それを読む。相手が何か言えば、AIが次の文章を作る。それをまた読む。
「自分で考えなくていい」
説明会でそう言われた。その言葉が、妙に安心だった。
説明会はオンラインだった。参加者は十二人。全員、顔を出していなかった。講師だけがカメラをつけていた。三十代くらいの男だった。黒いパーカーを着ていた。
「難しい仕事じゃないです」
最初にそう言った。
「みなさんにお願いするのは、コミュニケーションです」
画面共有。専用システム。左側に通話。中央に文章。右側に相手についての情報。
「AIが会話を支援します」
講師は言った。
「基本、自分の言葉で勝手に話さないでください」
参加者の誰かが質問した。
「台本読むだけですか」
「ほぼそうです」
「営業ですか」
「広い意味では」
男は笑った。
「まあ、電話の仕事ですね」
その笑いのなかで、何かがぼやけた気がした。でも、それ以上は聞かなかった。聞かない方が、始めやすかった。
仕事内容について、詳しい説明はなかった。「金融関連です」と言われた。「既存顧客向けの確認業務」とも言われた。彼はそれ以上聞かなかった。金融会社で働いたことはない。金融関連と言われても、何が普通なのかわからない。わからないまま頷くことが、就職以来いちばん慣れた動作になっていた。
最初の研修では、高齢者役のAIと練習した。画面に相手の声が文字起こしされる。その下に、推奨回答が出る。
《ゆっくり話してください》
《相手の不安を否定しないでください》
《一度に複数の情報を伝えないでください》
《相手が混乱した場合は、直前の話題へ戻ってください》
普通のカスタマーサポート研修に見えた。彼は合格した。合格したことが、少し誇らしかった。
仕事は、小さな部屋でやった。会社のオフィスではない。繁華街から少し離れたマンション。七階。看板はない。部屋には机が六つ並んでいた。窓にはカーテンが閉まっていた。働いている人たちは、ほとんど彼と同じくらいの年齢だった。一番年上でも三十歳くらい。名前では呼ばなかった。システム上の名前があった。A12。K07。M31。彼はR18だった。
「ルート?」
初日に隣の男が笑った。
「なんかロボットみたいだな」
彼も笑った。名前がないことが、むしろ楽だった。
最初の電話は、七十代の女性だった。緊張していた。ヘッドセットをつける。接続音。画面に、《会話開始》と出た。女性が、「はい」と言った。AIが文章を生成した。彼は読んだ。用件を伝える。本人確認をする。手続きについて説明する。女性が聞き返す。
「よくわからないんだけど」
画面が変わる。《安心させてください》。その下に、読む文章。彼は読んだ。女性は少し安心したようだった。その後も、AIの文章を読んだ。自分では、ほとんど何も考えなかった。十五分ほどで電話が終わった。画面に、《Complete》と表示された。続いて、《Performance: 82》。初回にしては高かった。隣の男が画面をのぞいた。
「いいじゃん」
嬉しかった。仕事で褒められる感覚が、久しぶりだった。
一週間で慣れた。相手の声を聞きながら、画面を見る。AIは速かった。相手が話し終わる前から、次の応答候補が準備される。不安。疑念。怒り。混乱。信頼。会話の状態が色で表示された。彼はそれを見ながら読む。最初は人間と話している感じがした。そのうち、画面と話している感じになった。電話の向こう側に誰がいるのか、あまり考えなくなった。考えない方が、仕事は速かった。
給料は成績制だった。通話時間ではない。《Completion》という数字だった。完了した件数。質も評価された。AIの台本から逸脱すると減点。声が速すぎても減点。相手を遮っても減点。不必要に強い表現を使っても減点。丁寧に話し、AIの指示に従い、最後まで手続きを完了させる。それだけだった。彼は成績がよかった。よかったことが、正しさのように感じられた。
月末。マネージャーに呼ばれた。二十代後半くらいの男だった。
「R18、今月トップ三入ってるよ」
「マジすか」
「向いてるね」
人生で、仕事に向いていると言われたのは初めてだった。倉庫では遅いと言われた。居酒屋では愛想が悪いと言われた。スマートフォンショップでは、「もう少しお客様の気持ちを考えて」と言われた。ここでは逆だった。自分で相手の気持ちを考える必要がない。AIが考えてくれる。彼は、その通りに話せばいい。向いている、という言葉が、妙に胸に残った。
二か月目。給料は三十四万円を超えた。母親には、「IT関係」と言った。間違ってはいない気がした。
「すごいね」
母親は言った。
「ちゃんとした会社?」
「まあ」
「保険は?」
「まだ」
「正社員じゃないの?」
「業務委託」
その言葉も、説明会で教わった。母親は少し心配そうな顔をした。彼は言った。
「普通の会社より稼げるから」
母親は、「ならいいけど」と言った。その顔を見て、少しほっとした。少し後ろめたかった。
妹に、新しいイヤホンを買った。六万円した。自分にはスニーカーを買った。母親には、炊飯器。家の食卓に新しい炊飯器が置かれた。母親は何度も、「こんな高いのいらないのに」と言った。嬉しそうだった。彼は、その顔を見るのが好きだった。稼いだお金が、家の中でたしかなものに変わっていく気がした。
三か月目。変な電話があった。八十代の男性。途中まで普通だった。AIの指示通りに話していた。突然、男性が言った。
「君、本当に銀行の人か」
手が止まった。画面にはすぐ回答が出た。《相手の疑念を否定せず、説明を繰り返してください》。その下に台本。読もうとした。でも男性が続けた。
「孫がさ、こういう電話は切れって言うんだ」
画面上の状態が、《SUSPICION》に変わった。赤色。AIが別の文章を出した。彼は読んだ。男性は黙った。
「君、若いんだろ」
突然聞かれた。台本にはない質問だった。AIが回答候補を生成している。数秒。彼は先に答えてしまった。
「二十一です」
隣の席の男が、こちらを見た。男性は、「二十一か」と言った。
「孫と同じくらいだ」
何も言わなかった。胸の奥がざわついた。AIが、《Return to procedure》と表示した。戻った。戻らなければいけなかった。
電話が終わったあと、警告が出た。《Script deviation detected》。スコアが下がった。マネージャーがチャットを送ってきた。
《余計なこと言わないで》
彼は、《すみません》と返した。それで終わった。終わったはずなのに、その夜も男性の声が残っていた。
その夜、家で母親がニュースを見ていた。高齢者が詐欺被害に遭ったというニュースだった。キャスターが、「電話で公的機関を名乗り」と説明していた。彼はスマートフォンを見ていた。見ているふりをしていた。母親が言った。
「怖いね」
「うん」
「おばあちゃんにも言っとかないと」
彼の祖母は岐阜に住んでいた。八十二歳。一人暮らし。
「変な電話来たら切れって」
母親が言った。彼は、「そうだね」と答えた。声が、少し乾いていた。
その日の夜、初めて自分の仕事を検索した。会社名は検索しても出てこなかった。業務委託元の名前も出ない。契約書に書いてあった住所を調べた。レンタルオフィスだった。少し気になった。背中が冷たくなった。しかし翌朝には仕事へ行った。理由は簡単だった。給料日が近かった。気になることより、給料日の方が近かった。
四か月目。新人が入った。十九歳。高校を中退したと言った。
「これ、何の仕事なんすか」
休憩中に聞かれた。彼は答えた。
「電話」
「いや、それはわかるんすけど」
「金融」
「銀行なんすか」
「知らない」
十九歳は笑った。
「知らないでやってんすか」
「お前もだろ」
「まあ」
二人で笑った。笑いながら、胸の奥が少し痛んだ。知らないままやっていることを、口にした瞬間、それがはっきりした。
ある日、新人が通話中にパニックになった。電話の相手が泣き始めたらしい。新人はヘッドセットを外した。
「無理っす」
マネージャーが来た。
「どうした」
「ばあちゃん泣いてる」
「だから?」
新人は黙った。
「AI出てるだろ」
「出てますけど」
「読めばいいじゃん」
「でも」
マネージャーはため息をついた。
「お前が判断する仕事じゃないから」
その言葉を、彼は聞いていた。お前が判断する仕事じゃない。妙に安心する言葉だった。同時に、少し怖かった。判断しなくていい場所に、自分はいる。
それから彼は、自分にもそう言うようになった。俺が決めているわけじゃない。俺が文章を作っているわけじゃない。俺が電話番号を選んでいるわけじゃない。俺がシステムを作ったわけじゃない。俺は、表示された文章を読んでいるだけだ。そう言えば言うほど、少し楽になった。楽になるほど、自分がいなくなっていく気がした。
五か月目。月収は四十一万円になった。以前働いていたスマートフォンショップの店長より多かった。高校時代の友達は、自動車整備工場で正社員になっていた。手取り二十万円くらい。ある夜、二人で飲んだ。
「お前、何してそんな稼いでんの」
「電話」
「営業?」
「まあ」
「正社員?」
「違う」
「でも四十万?」
「成果報酬」
友人は言った。
「いいなあ」
彼は、「楽だよ」と言った。本当に楽だった。少なくとも身体は。頭のどこかが、ずっと重かった。
友人が言った。
「俺、朝八時からだよ」
「早」
「油まみれだし」
「辞めれば」
「資格取ったばっかだし」
「でも給料安いじゃん」
友人はビールを飲んだ。
「まあ、仕事覚えれば上がるらしいけど」
仕事を覚える。その言葉を聞いて、自分の仕事について考えた。自分は何を覚えたのだろう。電話のかけ方。システムの使い方。AIの指示に従うこと。それ以外は、前より何もできるようになっていない気がした。できるようにならないまま、給料だけが増えていく。それが、少し不安だった。
六か月目。その朝、マンションへ行くと、部屋が閉まっていた。鍵が開かない。グループチャットを見る。マネージャーからメッセージ。
《今日は各自待機》
それだけ。電話しても出ない。昼になった。夕方になった。チャットから一人ずつ退出していった。誰かが書いた。
《飛んだ?》
別の人。
《警察じゃね》
その文章を見て、初めて背中が冷たくなった。知っていたはずのことを、知らなかったふりが終わった気がした。
夜。ニュースを見た。複数の県で発生していた特殊詐欺グループの摘発。電話役。回収役。指示役。匿名性の高い通信アプリ。生成AIを利用した会話支援。キャスターが言った。彼はテレビの音量を上げた。画面に、見覚えのあるマンションが映った。自分が毎日通っていた建物だった。手が震えた。いや、震えなかった。ただ冷たいまま動かなかった。
母親がキッチンから戻ってきた。
「あれ」
画面を見る。
「この辺じゃない?」
答えなかった。ニュースでは、若者たちが役割を細分化され、犯罪全体を理解しないまま参加するケースがある、と説明していた。
「怖いねえ」
母親は言った。彼は、「うん」と答えた。うん、以外の言葉が出なかった。
その夜は眠れなかった。専用スマートフォンを何度も見た。電源は切っていた。捨てた方がいいのか。警察へ行った方がいいのか。何を話せばいいのか。自分は何をしたのか。わからなかった。わからないまま、天井を見ていた。
三日後。知らない番号から電話が来た。出なかった。また来た。出なかった。三度目。母親が、「出なくていいの?」と聞いた。彼は、「いい」と言った。着信が止まった。止まったあとも、耳の奥で呼び出し音が残っていた。
その日の午後。祖母から電話が来た。珍しかった。
「元気?」
彼が聞く。
「元気だよ」
祖母の声は、電話越しだと少し遠かった。
「仕事どう?」
「まあ」
「忙しい?」
「普通」
「お母さんから聞いたよ。稼いどるんだって」
笑った。
「まあね」
祖母も笑った。
「偉いねえ」
その言葉で、胸が痛くなった。偉い、と言われて、自分が小さくなった。
祖母が言った。
「この前、変な電話が来てね」
体が固まった。
「何の?」
「役所みたいなこと言っとった」
「いつ?」
「先月かな」
「で?」
「ようわからんから切った」
息を吐いた。肩の力が抜けた。抜けたあと、別の怖さが来た。
「そういうの、絶対切って」
「わかっとるよ」
「すぐ切って」
「はいはい」
祖母は笑った。
「最近の若い人は心配性だね」
電話を切ったあと、自分の通話履歴を思い出そうとした。何百人と話した。名前は覚えていない。声もほとんど覚えていない。七十代。八十代。男性。女性。一人暮らし。家族あり。その中に祖母がいても、たぶん気づかなかった。気づかなかったことが、いちばん恐ろしかった。
翌日、警察へ行った。入口まで行った。自動ドアの前で止まった。中に制服の警察官が見えた。何と説明すればいいのか考えた。「求人を見ました」「電話しました」「AIの文章を読みました」「知らなかったんです」。最後の言葉だけが、ひどく薄く聞こえた。知らなかった。本当に知らなかったのか。途中からは、知りたくなかっただけではないのか。その問いが、足を止めた。彼は中に入れなかった。
近くのコンビニに行った。コーヒーを買った。店員は高校生くらいだった。
「百八十円です」
スマートフォンで払った。レシートを受け取った。外のベンチに座った。求人アプリを開いた。仕事を探す。倉庫。月給二十二万円。介護助手。月給二十三万円。携帯販売。月給二十五万円。配送。月給二十七万円。どれも、前の仕事より安かった。安い仕事の方が、怖い気がした。怖い仕事の方が、簡単だった気がした。その逆転が、頭の中で回った。
スクロールする。《未経験歓迎》《安定企業》《社会保険完備》《研修制度あり》。画面を見た。一つの求人を開いた。物流会社。正社員。月給二十四万五千円。賞与あり。年間休日百二十日。仕事内容。商品の仕分け。在庫管理。新人教育。《応募する》を押した。押した瞬間、少しだけ楽になった。少しだけ、怖かった。
面接で聞かれた。
「前職は?」
少し迷った。
「コールセンターです」
「どんな業務?」
「電話対応」
「会社名は?」
答えられなかった。
「業務委託だったので」
面接官は少し不思議そうな顔をした。
「どれくらい?」
「半年です」
「お客様対応なら、コミュニケーションは得意ですか?」
彼は、「普通です」と答えた。普通、という言葉を口にした瞬間、嘘をついた気がした。でも、それ以外の言い方が見つからなかった。
採用された。給料は半分近くになった。朝八時半に出勤する。立ち仕事。箱を運ぶ。バーコードを読む。間違える。先輩に注意される。最初の一か月は、毎日足が痛かった。
「これ、そこじゃないよ」
と言われる。
「すみません」
「次から気をつけて」
誰も優しくAIの文章を出してくれない。自分で覚えるしかなかった。覚えることが、つらかった。覚えることが、少しだけ安心でもあった。
三か月後。新人が入った。十八歳。初日からミスをした。先輩が少し強く言った。新人は落ち込んでいた。休憩室で一人で座っている。彼は隣に座った。
「最初みんな間違えるよ」
新人は言った。
「向いてないっすかね」
彼は、「まだわかんないでしょ」と答えた。
「俺も最初全然できなかったし」
それは嘘ではなかった。できなかった自分を、ちゃんと覚えていることが、少し誇らしかった。
半年経った。新人に仕事を教えるようになった。荷物の扱い方。端末。危ない場所。わからないとき誰に聞くか。教えると、時間がかかる。自分でやった方が速い。AIならもっと速い。でも、新人が一人でできるようになると少し嬉しかった。誰かの役に立っている感覚が、手のひらに残った。
ある日、休憩中にスマートフォンを見ていると、特殊詐欺事件の裁判の記事が流れてきた。電話役として逮捕された若者。二十二歳。「指示された文章を読み上げただけ」と供述していると書かれていた。記事を最後まで読んだ。コメント欄には、《そんな言い訳通用しない》《被害者の人生を考えろ》《楽して稼ごうとするから》と並んでいた。画面を閉じた。全部、間違ってはいないと思った。間違っていないことが、刺さった。
その夜。母親が言った。
「今の仕事、前より大変?」
「大変」
「給料も下がったんでしょ」
「うん」
「じゃあ、前の方がよかったんじゃない?」
少し考えた。
「わかんない」
「今の会社、ちゃんとしてる?」
「たぶん」
「たぶん?」
母親が笑った。彼も笑った。ちゃんとしている、と言いきれないまま働いている。それでも、前よりは自分の足で立っている気がした。
寝る前。LIFEを開いた。普段はほとんど使っていなかった。
「仕事って何」
と入力した。LIFEが答えた。
《仕事には、収入を得ること、社会的役割を担うこと、技能を身につけること、他者と関係を持つことなど、複数の側面があります》
正しかった。続けた。
「言われたことをやるだけでも仕事?」
《多くの仕事には、指示された作業を実行する側面があります》
「悪いことだと知らなかったら?」
少し待った。
《知らなかったことと、責任がないことは必ずしも同じではありません》
画面を見た。正しさが、また胸に刺さった。逃げられない答えだった。
「じゃあ、どこで止まればよかった?」
LIFEはすぐには答えなかった。
《一般論として、違和感を持った時点で確認する、第三者に相談する、業務の目的や契約主体を確認するなどの選択肢があります》
思い出した。会社名を検索した夜。祖母のニュースを見た夜。十九歳の新人が、何の仕事なんすか、と聞いたとき。老人が、孫と同じくらいだ、と言ったとき。入口はいくつもあった。入る場所だけだと思っていた。出る場所も、入口だったのかもしれない。
彼は入力した。
「入口って、一個じゃないんだな」
《そうかもしれません》
「入る入口じゃなくて」
《うん》
「出る入口」
今度は、少し時間がかかった。
《それも、入口と呼べると思います》
スマートフォンを閉じた。閉じたあとも、その言葉が残った。
翌朝。新人と二人で荷物を運んでいた。新人が重い箱を持とうとした。彼は言った。
「それ一人で持たない方がいい」
「いけますよ」
「腰やるから」
二人で持った。重かった。前の仕事では、誰かの重さを感じることはなかった。声だけだった。画面だけだった。数字だけだった。今は、箱の重さが手に残る。重さが残ることが、少しだけよかった。
倉庫の入口まで運ぶ。朝の光が差していた。トラックが一台、バックで入ってくる。警告音が鳴る。彼は新人を少し横へ寄せた。
「危ないよ」
と言った。たったそれだけのことだった。誰かに表示された文章ではなかった。自分で見て、自分で決めて、自分で言った。胸の奥が、少しだけ温かかった。その日の仕事は、まだ始まったばかりだった。
