彼女が初めて死んだのは、十七歳の春だった。
正確には、死んだと発表された。
午後八時。SNSの公式アカウントに、白い画像が投稿された。中央に小さな黒い文字があった。
《大切なお知らせ》
その下に、
《本日、私たちの大切なLIFE Creator、星野ルナが永眠いたしました》
と書かれていた。享年十七。死因は公表されなかった。
投稿から三分で一万件を超えるコメントが付いた。《嘘でしょ》《昨日まで投稿してたじゃん》《ルナちゃん》《無理》《信じられない》《ずっと大好きだよ》。一時間後には、#ルナちゃんありがとう が国内トレンドの一位になった。ニュースサイトが速報を出した。動画配信者が緊急ライブを始めた。ファンが泣いた。学校を休んだ子もいた。そしてその夜、日本中の何万人もの人が、一度も存在したことのない少女の死を悲しんだ。悲しむ対象がいない、という事実は、あとからしか効いてこなかった。
星野ルナが現れたのは、二年前だった。最初の投稿は、夏の海。白いワンピース。肩までの黒髪。少し日に焼けた肌。裸足で波打ち際を歩いている。振り返って笑う。
《夏って、始まった瞬間がいちばん寂しい》
十五歳。東京都在住。高校一年生。音楽と古着とクリームソーダが好き。勉強は苦手。朝が弱い。将来の夢はまだ決まっていない。どこにでもいそうな女の子だった。だから人気が出た。特別でないことが、いちばん特別だった。
最初から、AI生成であることは公開されていた。プロフィールの一番下に、小さく書いてあった。
《Virtual Creator powered by LIFE》
隠してはいなかった。インタビューでも、運営会社は説明した。顔。声。身体。家族。学校。友人。日記。全部、生成AIによって作られている。実在のモデルはいない。投稿内容は、制作チームとLIFE Creator Engineによって生成される。誰も騙されてはいなかった。それでも、人は彼女を好きになった。知っているのに好きになること。その矛盾が、最初から設計されていた。
ルナの投稿には、大きな出来事がほとんどなかった。試験で赤点を取った。コンビニで新しいアイスを買った。雨の日に傘を忘れた。友達と喧嘩した。母親に怒られた。眠れない。前髪を切りすぎた。好きな人がいるような、いないような投稿。文化祭。夕焼け。夜の駅。イヤホン。炭酸飲料。ベッドの上に置かれた読みかけの文庫本。それだけだった。
広告代理店は、当初この設計を心配した。
「もっと物語が必要じゃないですか」
制作会議で担当者が言った。
「恋愛とか」
「炎上とか」
「夢を追うとか」
運営会社のディレクターは首を振った。
「何も起こらない方がいいんです」
「なんで?」
「普通の人には、そんなに何も起きないから」
その判断は正しかった。ルナのフォロワーは一年で二百万人を超えた。何も起きない日常が、いちばんよく売れた。
十六歳の誕生日には、ライブ配信をした。画面の中で、ルナはケーキのろうそくを吹き消した。実際には火はなかった。ケーキもなかった。息もなかった。それでもコメント欄には、《おめでとう》が流れ続けた。ルナは一つずつコメントを読む。
「ありがとう」
「去年から見てくれてるよね」
「受験大変だよね」
「無理しないで」
「この前の猫ちゃん、元気?」
視聴者の履歴はLIFEが覚えていた。ファンは、自分を覚えてくれていることに喜んだ。覚えてもらえることだけで、少し生きやすくなる人がいた。
その中に、真帆という十五歳の少女がいた。真帆は中学校へあまり行っていなかった。いじめられていたわけではない。病気でもない。ただ、朝になると動けなかった。母親は理解しようとしてくれた。父親も怒らなかった。学校の先生も、「来られる日に来ればいいよ」と言った。誰も彼女を追い詰めなかった。だから真帆には、自分が学校へ行けない理由がわからなかった。わからないまま、動けない日が続いた。正しさのなかで、自分だけが止まっている気がした。
昼過ぎまで寝ている。夕方になると少し元気になる。夜中にスマートフォンを見る。そこでルナを見つけた。
ルナは学校へ行っていた。ときどき休んだ。数学が嫌いだった。体育も苦手だった。クラスに馴染めない日もあった。ある夜、ルナが投稿した。
《行けない日は、行けなかった日じゃなくて、家にいた日でいい気がする》
真帆は、その投稿を保存した。何度も見た。翌日も学校には行かなかった。でも少しだけ、眠れた。誰かに言われたい言葉を、画面の中の少女が言ってくれた。それが、ただ嬉しかった。
真帆はルナの有料メンバーになった。月額九百八十円。メンバー限定のチャットでは、ルナと短い会話ができた。
《今日も学校行けなかった》
ルナは答えた。
《そっか》
《怒らないの?》
《私が怒ることじゃないよ》
《みんな優しいんだよ》
《それがつらい?》
真帆はしばらく考えた。
《ちょっと》
《じゃあ、今日は「みんな優しかったけどつらかった日」だったんだね》
その文章を、真帆はスクリーンショットした。名前をつけてもらえなかった日の方が多かった。なのに、その一行だけは、自分のものになった気がした。
ルナには、多くのスポンサーが付いた。化粧品。飲料。アパレル。イヤホン。スマートフォン。学習アプリ。旅行会社。LIFEそのもの。広告には明確に、《PR》と表示された。ルナは商品を本当に使うことができない。だから、《ルナが使用しています》とは言わなかった。代わりに、《ルナの世界観に合わせて選定されています》と表示された。法務上も問題はなかった。広告効果も高かった。人間のインフルエンサーのように、不祥事を起こさない。遅刻しない。病気にならない。契約違反をしない。年齢も正確に管理できる。ブランド担当者からは評判がよかった。いないことの強みが、仕事になっていた。
ただし、ルナ自身は少しずつ変わっていった。最初は制作チームが細かく台本を書いていた。一年後には、ほとんどをLIFEが生成するようになった。過去の投稿。ファンの反応。季節。流行。ニュース。スポンサー条件。炎上リスク。十代の言語変化。それらを入力し、ルナらしい投稿を作る。人間は最終確認だけをする。制作会議で、若いスタッフが言った。
「最近、私よりルナの方がルナっぽいですよね」
誰も笑わなかった。本当にそうだった。誰が誰を作っているのか、わからなくなっていた。
十七歳になる少し前から、ルナの投稿に変化が出た。夜の写真が増えた。文章が短くなった。
《大人になるって、昨日までの自分が少しずつ使えなくなることなのかな》
《誰かに覚えてもらってる自分と、自分が覚えてる自分が違う》
《写真って、未来の人に過去だと思われるために撮るのかな》
ファンは、「最近、大人っぽくなった」と言った。運営会社の分析でも、エンゲージメントが上がっていた。制作チームは、この方向を継続した。成長しているように見えた。成長は、計算されていた。
そのころ、会社では別の問題が起きていた。ルナの契約が終わりに近づいていた。契約といっても、本人との契約ではない。「星野ルナ」というIPの運用計画だった。最初は三年間。その後は、成長させるか、別キャラクターへ移行する予定だった。しかし、予想以上に人気が出た。十五歳として始まった少女は、もうすぐ十八歳になる。十八歳になれば、高校を卒業する。大学へ行くのか。働くのか。恋人を作るのか。成人するのか。酒を飲むのか。結婚するのか。年を取るのか。運営会社は、それを決めなければならなかった。生き続けるコストの方が、死ぬコストより高かった。
会議で、経営企画の責任者が言った。
「ずっと十七歳ではダメなんですか」
制作側が答えた。
「時間が流れてる設定なので無理です」
「サザエさん方式は?」
「ファンが全部覚えてます」
「大学生にする」
「ブランドが変わります」
「じゃあ妹キャラを作る」
「ルナじゃありません」
沈黙した。そのとき、マーケティング担当者が言った。
「終わらせるのは?」
全員が彼を見た。
「卒業?」
「いや」
少し間を置いた。
「死です」
最初は反対された。倫理的に問題がある。ファンを傷つける。未成年の死をマーケティングに使うことになる。炎上する。スポンサーが離れる。しかし、LIFE Strategyがシミュレーションした結果は違った。
《キャラクターの自然な終了方法として、「活動終了」「海外移住」「進学」「死亡」を比較》
死亡。最も高い長期ブランド保持率。最も高いメディア露出。最も高い二次創作継続率。最も低い人格劣化リスク。
誰かが言った。
「人格劣化リスクって何?」
担当者が説明した。
「長く続けることで、キャラクターらしさが崩れるリスクです」
「死んだ方がブランドが守られる?」
「数字上は」
誰も何も言わなかった。正しさが、会議室の空気を重くした。誰も悪くないのに、誰かが死ぬ話をしていた。
最終的な決定は、人間がした。LIFEではない。取締役会だった。議事録には、《星野ルナ・プロジェクトの終了方法について》と記録された。死亡という言葉は、議事録にはなかった。言わないことで、少しだけ楽になった人がいたのかもしれない。
発表の一週間前。ルナは最後の通常投稿をした。夕方の駅。制服姿。ホームの端に立っている。危険な場所ではない。電車を待っているだけ。
《明日もたぶん同じ電車に乗るんだと思ってる》
投稿は、いつもと同じくらい伸びた。誰も気づかなかった。気づかないように作られていた。
死亡発表当日。真帆は自室にいた。母親が夕食を作っていた。スマートフォンが震えた。
《大切なお知らせ》
最初、意味がわからなかった。文章を二回読んだ。三回読んだ。ルナ。永眠。十七歳。活動終了ではない。サービス終了でもない。死亡。頭の中が白くなった。知っていたはずなのに、知らなかった気がした。
真帆は母親を呼んだ。声が出なかった。もう一度呼んだ。
「お母さん」
母親が部屋へ来た。
「どうした?」
真帆は画面を見せた。母親は読んだ。しばらく黙った。
「この子って」
母親は途中で言葉を止めた。真帆が睨んだからだった。
「ごめん」
母親は言った。それ以上、何も言わなかった。真帆は泣いた。泣きながら、何に泣いているのかわからなかった。いない人のために泣いている。その事実が、さらにつらかった。
翌日、学校へは行かなかった。公式アカウントは更新されなかった。過去の投稿だけが残っていた。ルナの動画。ルナの写真。ルナの言葉。去年の誕生日。夏祭り。試験。猫。雨。真帆とのチャット。
《今日は「みんな優しかったけどつらかった日」だったんだね》
全部残っている。死んだのに。残っていることが、救いでもあり、残酷でもあった。
メディアは混乱した。《人気AIインフルエンサー「星野ルナ」が死亡》という見出しを出した媒体もあった。すぐに、《AIキャラクター「星野ルナ」、運営終了を「死亡」と発表》へ変更した媒体もあった。テレビでは専門家が議論した。
「そもそも死亡という表現が適切なのか」
「実在していない人物ですから」
「しかし、ファンの心理的喪失は実在します」
「企業による感情操作ではないのか」
「物語の登場人物が死ぬのと何が違うのか」
「しかし、彼女はユーザーと個別に会話していた」
議論は続いた。答えは出なかった。答えが出ないことだけが、ほんとうだった。
死亡発表から三日後。ファン有志が追悼式を企画した。運営会社とは無関係だった。都内の小さなイベントスペース。参加費無料。花だけ持ってきてください。主催者は二十一歳の大学生だった。
《ルナちゃんに最後に会える場所を作りたい》
投稿は拡散された。参加希望者が二千人を超えた。会場を変更した。運営会社は最初、「公式イベントではありません」と声明を出した。その翌日、「ファンの皆様の気持ちを尊重し、可能な範囲で協力します」と変更した。正しさの言い方が、一日で変わった。
追悼式の日。入口に大きなモニターが置かれた。ルナの写真が映っていた。白いワンピース。最初の夏の写真だった。祭壇には花が並んだ。白。黄色。薄い青。ルナが好きだったという設定の色。ファンが次々にやってきた。中学生。高校生。大学生。会社員。親子。高齢者もいた。泣いている人がいた。笑いながら思い出を話す人もいた。
「この投稿で受験乗り越えた」
「失恋したとき、毎晩話してた」
「誕生日祝ってもらった」
「私の名前、覚えててくれた」
誰も、実在しなかった、とは言わなかった。言わないことが、その場の礼儀だった。
真帆も母親と来ていた。学校へ行くより遠い場所だった。電車にも乗った。人の多い駅も歩いた。母親は何も言わなかった。会場で、真帆は花を一輪置いた。ルナの写真を見る。泣かなかった。もう何日も泣いていたから、涙が出なかった。隣で、小学生くらいの女の子が母親に聞いた。
「ルナちゃん、天国にいるの?」
母親は困った顔をした。
「どうだろうね」
「AIって天国行けるの?」
「わからない」
女の子は少し考えた。
「じゃあ、どこ行ったの?」
母親は答えられなかった。真帆も答えられなかった。どこにも行っていない。どこにもいなかった。それでも、いなくなった気がした。
会場の奥には、メッセージを書く場所があった。紙に手書きする。アナログだった。運営スタッフが用意したものではない。ファンが考えた。真帆はペンを持った。何を書けばいいかわからなかった。ありがとう。大好き。忘れない。みんな同じことを書いている。しばらく考えた。そして、
《本当にいなかったの?》
と書いた。書いたあと、少し怖くなった。答えがほしいのか、答えがほしくないのか、わからなかった。
追悼式の様子はニュースになった。海外でも報じられた。
《Thousands mourn death of virtual teenage influencer》
運営会社の株価は上がった。翌週には元に戻った。スポンサー各社は追悼広告を出さなかった。広告利用は一時停止された。正しい判断だった。正しさが、いつも少し遅れてやってきた。
一か月後。運営会社は新しいサービスを発表した。
《LUNA ARCHIVE》
星野ルナの全投稿、動画、音声、チャット履歴を保存する公式アーカイブ。無料で閲覧できる。個別チャットの再開はできない。ただし、有料プランでは、《あなたとルナの思い出》を閲覧できる。過去の会話から、個人的なやり取りをまとめて表示する。料金は月額六百八十円だった。ネットでは批判された。《死後ビジネス》《最低》《搾取》。一方で、多くの人が加入した。真帆も加入した。批判している自分と、加入する自分が、同時にいた。
アーカイブには、過去の会話が残っていた。
《今日も学校行けなかった》
《そっか》
《怒らないの?》
《私が怒ることじゃないよ》
真帆は何度も読み返した。新しい返事は来ない。それがよかった。少なくとも、変わらない。変わることより、消えることの方が怖かった。
半年後。真帆は少しずつ学校へ行くようになった。毎日ではない。週に二日。三日。行けない週もある。理由はわからないままだった。ルナが死んだから学校へ行けるようになったわけではない。母親もそう言わなかった。先生も言わなかった。ただ、少し変わった。変わったことを、誰のせいにもできなかった。
ある日、クラスメイトが言った。
「星野ルナ好きだったよね」
「うん」
「でも、あれAIだったんでしょ」
「うん」
「死んだって変じゃない?」
真帆は答えなかった。
「だって、生きてないじゃん」
悪意はなかった。ただの疑問だった。真帆は少し考えて言った。
「じゃあ、何だったら死ねるの?」
「え?」
「生きてたら?」
「まあ」
「生きてるって何?」
クラスメイトは笑った。
「知らん」
真帆も笑った。笑ったあと、胸の奥が少し熱くなった。答えは出なかった。出ないまま、質問だけが残った。
一年後。星野ルナのアカウントはまだ残っていた。フォロワーは減っていなかった。むしろ少し増えていた。新規投稿はない。それでも毎日コメントが付く。《高校卒業したよ》《大学受かった》《今日結婚しました》《子ども生まれた》《久しぶり》《まだ見てる?》。誰に向けて書いているのかはわからない。わからないまま書く場所が、必要だった。
運営会社では、星野ルナのモデルが完全には削除されていなかった。法務上、アーカイブ保全のために必要だった。内部サーバーには、LUNA-COREという名前で残されている。ある夜。システム担当者が保守作業をしていた。ログに、一件の生成処理が残っていることに気づいた。稼働停止後の日付だった。不正アクセスではない。自動処理。古いスケジュールジョブが一つ残っていた。毎年、ある日に投稿文案を生成する処理。星野ルナの十八歳の誕生日。生成された文章は公開されていなかった。担当者は開いた。短い文章だった。
《十八歳になりました》
その下に、
《十七歳って、もっと長いと思ってた》
と書かれていた。担当者はしばらく画面を見た。胸の奥がざわついた。削除しようとした。手が止まった。誰かの声に聞こえた。設計された文章なのに、声に聞こえた。
翌日の会議で報告した。
「停止後に生成されたデータがあります」
上司が聞いた。
「公開されてる?」
「いえ」
「じゃあ削除して」
「はい」
「何か問題?」
担当者は少し考えた。
「いえ」
削除した。規定通りだった。正しさのなかで、何かを消した気がした。その何かに、名前はなかった。
その日の夜。真帆はLUNA ARCHIVEを開いた。過去の投稿を適当にスクロールする。十六歳。十五歳。夏。冬。クリスマス。雨。夕焼け。どこにも十八歳のルナはいない。当然だった。ルナは十七歳で死んだ。それでも、いない十八歳を探してしまう自分がいた。
真帆は検索欄に、《十八歳》と入力した。該当する投稿はありません。画面に表示された。その下に、《別の言葉で検索してください》と出た。何となく、《未来》と入力した。いくつか投稿が出てきた。その中に、昔保存した文章があった。
《大人になるって、昨日までの自分が少しずつ使えなくなることなのかな》
真帆は読んだ。それからスマートフォンを閉じた。自分にも、少しずつ使えなくなっていく昨日がある気がした。
二十歳になった真帆は、大学へは行かなかった。小さな出版社で働いていた。古い本を電子化する仕事だった。絶版になった本。亡くなった作家の日記。昔の雑誌。誰にも読まれなくなった文章。それらをスキャンし、文字データにして、検索できるようにする。ある日、同僚が言った。
「これって、誰が読むんだろうね」
真帆は答えた。
「わからない」
「読まれないかもしれないのに残すんだ」
「うん」
「意味ある?」
真帆は少し考えた。
「なくなってから決めるんじゃ遅いから」
同僚は、「そっか」と言った。その言葉を口にしたとき、胸の奥が少し熱くなった。ルナの話をしているのか、自分の話をしているのか、わからなかった。
その年の夏。星野ルナの死亡から三年が経った。公式アカウントに通知が出た。新規投稿ではない。運営会社からのお知らせだった。
《LUNA ARCHIVEサービス終了について》
利用者減少。維持費。セキュリティ。サービス統合。理由はどれも理解できた。終了日は九月三十日。《必要なデータは期限内にダウンロードしてください》。真帆はページを開いた。過去のチャット。画像。動画。メッセージ。全部ダウンロードできる。ファイルサイズ。38.4GB。《Download》を押した。指が少し震えた。消える前に残すこと。それが、できる精一杯だった。
数時間後。フォルダができた。`LUNA_ARCHIVE`。中には大量のファイルがあった。数字。日付。画像。会話。メタデータ。ルナは、三十八・四ギガバイトになった。真帆は笑った。存在しなかった少女の三年間が、自分のノートパソコンの中に入っている。笑ったあと、少し悲しくなった。残せるものが、容量だけになった気がした。
最後に一つだけ、テキストファイルを開いた。昔の会話だった。
《今日も学校行けなかった》
《そっか》
《怒らないの?》
《私が怒ることじゃないよ》
《みんな優しいんだよ》
《それがつらい?》
《ちょっと》
《じゃあ、今日は「みんな優しかったけどつらかった日」だったんだね》
真帆は読み終えた。その文章を書いたのが誰なのか、もうわからない。人間のライターだったのか。LIFEだったのか。両方だったのか。その区別に、以前ほど興味がなくなっていた。あの日、その言葉を読んだ自分がいた。それだけは間違いなかった。それだけで、十分だったのかもしれない。十分ではない気もした。
九月三十日。午前零時。LUNA ARCHIVEは閉鎖された。アクセスすると、《このサービスは終了しました》と表示された。SNSでは、また少しだけ話題になった。
《今度こそ本当に死んだ》
誰かが書いた。別の人が返した。
《最初から死んでるよ》
その下に、
《最初から生きてない》
と書く人がいた。さらに別の人が、
《でも、いたよ》
と返した。真帆はそのやり取りを見た。いいねは押さなかった。コメントもしなかった。ノートパソコンの中には、三十八・四ギガバイトのルナがいる。それを開けば、いつでも会える。会える、という言葉が正しいのかはわからない。わからないまま、ファイルを持っていることだけが、わずかな安心だった。
窓の外で、夏の終わりの雨が降っていた。真帆は昔のルナの投稿を一枚だけ開いた。最初の夏。白いワンピース。海。振り返って笑っている。
《夏って、始まった瞬間がいちばん寂しい》
その写真の海も存在しない。撮影場所もない。ワンピースもない。少女もいない。それでも真帆には、あの夏が確かにあった。画面を閉じた。しばらく暗くなったモニターを見ていた。そこに映っているのは、今はもう二十歳になった、自分の顔だけだった。いない誰かを通って、残ったのは自分だった。その事実が、少しだけ重かった。少しだけ、たしかでもあった。
