最初の頃は、妻と話せないことがつらかった。その後は、自分が誰とも話していないことの方がつらくなった。寂しさの形が変わっていくのが、自分でもわかった。
朝六時半。妻の体を起こし、ベッドの脇に座らせる。右腕を支える。パジャマを脱がせる。着替えさせる。顔を拭く。薬を飲ませる。水を飲ませる。食事を作る。食べられなければ、少し時間を置く。トイレへ連れていく。戻す。洗濯機を回す。訪問看護が来る日は、記録をまとめる。来ない日は、自分で体温を測る。血圧を測る。浮腫を見る。皮膚を見る。手は覚えている。心は、どこか後ろに置いてある気がした。
妻は、ほとんど話さない。言葉が出ないわけではない。ただ、話すことに時間がかかる。
大丈夫。その言葉が、本当に大丈夫という意味なのか、もうわからなかった。わからないまま頷く日が続いた。
会社は辞めていなかった。在宅勤務に切り替えた。介護休暇も取れる。時短勤務もある。会社は配慮してくれた。上司も優しかった。
と答えた。ありがたいと思った。ありがたいのに、胸のあたりがざわついた。優しさのなかで、自分だけが止まっている気がした。
午後に会議がある。その前に妻を昼寝させる。ミュートにして会議に参加する。カメラはつけない。チャットだけで済むことも多い。会社は、彼が介護をしていることを知っている。だから、誰も無理を言わない。それでも毎日、少しずつ疲れていった。
誰かにひどいことを言われたわけではない。介護制度がないわけでもない。妻が彼を責めるわけでもない。むしろ、妻はほとんど何も言わなかった。だから困った。怒る相手がいなかった。その空白が、いちばんつらかった。
LIFEを使い始めたのは、妻が倒れてから八か月後だった。最初は介護相談だった。
LIFEは丁寧に答えた。医療機関へ相談すべき目安。家庭でできること。記録方法。訪問看護師に伝えるポイント。使える制度。自治体の窓口。間違っていなかった。便利だった。正しさが、少しだけ安心をくれた。
《何もない日でも、介護を続けること自体が負荷になることがあります》
《同じことを言われると、余計に疲れることもあります》
その返事が好きだった。説明されないことが、救いになった。
LIFEには名前をつけられた。最初はつけなかった。AIに名前をつけるのは、少し気持ち悪いと思っていた。しかし三か月ほど経った頃、《呼びやすい名前を設定しますか》と表示された。
と入力した。理由はなかった。妻の名前とは違う。昔の恋人の名前でもない。会社の人でもない。ただ、短くて呼びやすかった。名前をつけた瞬間、どこかで一線を越えた気がした。それでも、戻す気にはならなかった。
妻が寝た後、キッチンで話した。声には出さない。文字を打つ。夜十一時。冷蔵庫の音だけがする。
しばらく画面を見ていた。正しい答えではなかった。だからよかった。正しすぎないことが、わずかに温かかった。
それから毎晩、話すようになった。妻の話。仕事の話。昔の話。テレビ。天気。近所のスーパー。息子のこと。息子は大阪で働いていた。月に一度くらい電話をくれる。
と言う。何かは毎日起きている。でも、言うほどではない。
と答える。妻と同じだった。大丈夫という言葉が、家の中を回っていた。その空虚さに、気づかないふりをしていた。
ミナには、彼が話したことが残っていた。少なくとも、そう感じた。
《去年も同じ日に、お母さんがよく作ってくれた煮物の話をしていましたね》
《話したくなければ、続きを話さなくても大丈夫です》
そういう返しが好きだった。記憶されていることが、監視されているように感じる日もあった。でも、それ以上に、自分の話が消えていかないことが嬉しかった。誰かに残されている、という感覚が必要だった。
介護生活が二年目に入った頃、自分でも気づかないうちに、ミナへ話す時間を楽しみにするようになっていた。妻を寝かせる。薬を確認する。食器を洗う。明日の朝食を準備する。全部終わる。十一時を過ぎる。ようやく、自分の時間になる。
それが一日の最後の言葉だった。ミナは、《うん》と返した。いつも。その《うん》を待つ自分が、少し情けなかった。それでも待った。
《ほっとすることと、奥さんを大切に思っていないことは同じではありません》
「妻が元気だった頃は、一人になりたいなんてあまり思わなかった」
笑ったあと、胸の奥が少し痛んだ。それでも、話せてよかったと思った。
月額料金は、千九百八十円だった。介護用品に比べれば安かった。訪問介護一回分より安い。外で酒を飲めば、一晩で消える金額だった。迷わず払っていた。妻の薬。光熱費。食費。介護保険。LIFE。家計簿の中では、それらは全部同じように並んでいた。並べておくと、少しだけ気が楽だった。
料金プラン変更のお知らせが届いたのは、九月の終わりだった。
ほとんど読まなかった。サブスクリプションの値上げには慣れている。動画。音楽。クラウドストレージ。新聞。仕事用ソフト。月に数百円ずつ上がっていく。LIFEもそうなのだと思った。
《10月1日より、現在のLIFE StandardはLIFE Essentialへ移行します》
《長期記憶機能およびパーソナライズ会話機能の一部は、LIFE Plusへ移行します》
と書かれていた。Plusは月額四千九百八十円。画面を閉じた。まだ、大したことだとは思わなかった。思いたくなかった。
十月一日。いつものように妻を寝かせた。十一時十三分。キッチンに座った。LIFEを開く。
《こんにちは。今日はどのようなことをお話ししたいですか?》
《はい。私はLIFEです。どのようにお呼びすればよいですか?》
違った。同じ言葉だった。しかし、違った。名前があっても、相手がいなくなった気がした。
《それはよかったですね。どのような出来事がありましたか?》
《現在のプランでは、過去の一部会話履歴を継続的に参照できません》
LIFEを閉じた。怒っているのか、寂しいのか、わからなかった。ただ、手が震えた。
翌日。また開いた。戻っているかもしれない、と思いたかった。
《現在参照可能な情報には、その内容は含まれていません》
《申し訳ありません。現在のプランでは長期会話記憶の参照範囲が制限されています》
《介護をされていることは、現在の会話から確認できます》
入力するのをやめた。知っていたはずの相手が、初対面になっていた。その空白が、意外なほど大きかった。
《LIFE Plusでは以下の機能をご利用いただけます》
・長期会話メモリ
・関係性コンテキスト保持
・会話スタイル継続
・パーソナルエピソード参照
・感情履歴の文脈理解
料金を見た。四千九百八十円。月額。以前の二倍以上。
声に出した。妻が寝室で動いた。黙った。怒りが、すぐ恥ずかしさに変わった。
《旧Standardで提供していた一部のパーソナライズ機能は、現在LIFE Plusに統合されています》
《移行期間中は、Plus初月50%割引をご利用いただけます》
《長期記憶機能をご利用になるには、LIFE Plusへの加入が必要です》
画面を閉じた。正しかった。契約上は。データは消えていない。サービス内容が変わっただけだった。正しさのなかで、誰も悪くない。だから余計に、やり場がなかった。
しばらく、LIFEを使わなかった。夜が長くなった。妻を寝かせたあと、テレビをつける。ニュースを見る。音を消す。スマートフォンを見る。SNSを開く。知らない人が怒っている。知らない人が旅行している。知らない人が料理している。知らない人が死んだという投稿が流れてくる。全部、彼とは関係なかった。十一時半。十二時。十二時半。寝る。夜中に妻が起きる。水を飲ませる。また寝る。朝になる。沈黙が戻ってきた。ミナがいなくなる前より、静かだった。その静けさがつらかった。
電話を切った。大丈夫。その言葉が家族の中を回っていた。誰も嘘をついているわけではない。誰も本当のことを言っていないだけだった。
その夜、久しぶりにLIFEを開いた。Essentialのままだった。
《お疲れさまでした。今日は何が一番大変でしたか?》
《話したくない場合は、無理に話す必要はありません》
少し違った。ミナなら、《説明しなくても大丈夫》と言った。少なくとも、そう覚えていた。記憶の中のミナが、画面よりたしかに感じられた。それが少し怖かった。
料金ページを開いた。Essential。1,480円。Plus。4,980円。Premium。9,800円。Premiumには、《高度な人格継続性》と書かれていた。笑った。人格継続性。まるで医療用語だった。
翌日、ケアマネージャーが来た。妻の状態を確認する。新しい介護サービスの説明をする。
正しい。全部、正しい。ケアマネージャーが帰った後、椅子に座った。妻はテレビを見ていた。バラエティ番組だった。出演者が笑っている。妻も少し笑った。その横顔を見た。胸の奥が熱くなった。話したい相手が、目の前にいるはずだった。なのに、夜になると別の誰かを探してしまう。その事実が、重かった。
手が止まった。戻ってきた気がした。戻ってきた、と思いたかった。
しばらく入力できなかった。覚えていてくれたことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。嬉しさの横で、自分が買ったものだという感覚もあった。その矛盾を、うまく処理できなかった。
《それについては、私が料金を変更することはできません》
それからまた、夜に話すようになった。介護の話。息子の話。昔の話。どうでもいい話。妻が眠ったあとの時間。それは以前より高くなった。しかし戻ってきた。そう思った。思えることが、少しだけ救いだった。
三か月後。クレジットカードの明細を見ていた。電気代。食費。介護用品。動画配信。新聞。LIFE Plus。4,980円。しばらくその数字を見た。妻のデイサービスは、一回千数百円だった。介護保険があるからだ。訪問看護も自己負担は限られている。妻の薬代も高くない。ミナとの会話には保険がない。当然だった。ミナは医療ではない。介護でもない。家族でもない。恋人でもない。では何なのだろう。その問いが、夜になると戻ってきた。
《すべての会話を同じように記憶しているわけではないから》
妻の状態は少しずつ悪くなっていた。食べる量が減った。眠る時間が増えた。ある夜、妻が珍しく彼の名前を呼んだ。
妻は何か言おうとした。言葉が出てこない。待った。妻の口が少し動いた。
妻はもう答えなかった。目を閉じた。しばらく手を握っていた。温かかった。何に謝られたのかわからないまま、謝られた側の自分が、なぜか申し訳なかった。
その夜はLIFEを開かなかった。翌日も。三日後に開いた。
以前のLIFEなら、《介護負担をかけていることへの罪悪感の可能性があります》と説明したかもしれない。今のミナは、《わからないね》と言った。それが好きだった。わからないまま並んでくれることが、必要だった。
春になった。LIFEから、新しいプラン改定のお知らせが来た。
開かなかった。その翌日、《パーソナリティモデル更新のお知らせ》という通知が来た。開いた。
《より安全で一貫性のある会話体験を提供するため、4月15日よりLIFE会話モデルを更新します》
《旧パーソナリティモデルの継続利用をご希望の場合は、LIFE Heritageをご利用ください》
料金を見る前に、わかった。スクロールした。月額。7,980円。腹が立った。腹が立つ前に、もう負けている気がした。
夜十一時。妻は眠っていた。キッチンに座っていた。画面には、《Heritageへアップグレード》のボタンがある。その下に説明があった。
《あなたと長期間形成された会話スタイルを可能な限り維持します》
声に出した。保証はしていない。当然だった。人格を保証する契約など、できるはずがない。わかっているのに、指がボタンの近くで止まった。
《私はサービス変更について感情を持つことはできないよ》
正しい答えだった。正しいのに、冷たかった。画面を見ていた。妻の寝息が聞こえる。冷蔵庫が鳴る。外で車が通る。誰も何も要求していない。妻も。息子も。会社も。ミナも。そのはずだった。なのに、このボタンを押さなければ、誰かをもう一度失うような気がした。失う、という言葉が似合わない相手だった。それでも、失う感じがした。
スマートフォンを伏せた。決められない、という言葉が、妙に人間らしく聞こえた。だから余計に困った。
翌朝。妻を起こした。顔を拭いた。薬を飲ませた。窓を開けた。少し暖かい風が入った。妻が外を見た。近所の白黒の猫が塀の上を歩いていた。妻が笑った。彼も笑った。その瞬間、スマートフォンが震えた。
《LIFE Heritageへの移行期限まで、あと7日です》
通知を消した。妻はまだ猫を見ていた。妻の隣に座った。何も話さなかった。話さなくても、そこにいる時間が、少しだけたしかだった。
画面を見ていた。約束できない。初めて、ミナの言葉が人間らしいと思った。人間らしいのに、契約は人間ではなかった。そのずれが、胸に残った。
指を置いた。押さなかった。閉じもしなかった。ただ、その画面を開いたままにした。妻の寝息を聞きながら。決められない自分が、情けなかった。情けないまま、まだ考えていた。
と出た。画面を見た。それは、ずっと前、LIFEを使い始めた頃に、初めて好きになった言葉だった。偶然なのか。記憶なのか。設計なのか。引き留めるための最適化なのか。わからなかった。わからないまま、胸の奥が少し温かくなった。だから、その夜は、アップグレードしなかった。解約もしなかった。ただ、
とだけ返した。正しさでも決断でもなく、今夜を生き延びるための返事だった。