十三歳の春、彼の将来は十一秒で計算された。
中学校の進路指導室。机の上には、学校から貸与されたタブレットが置かれていた。画面には、《LIFE PATH》と表示されている。その下に、小さな文字。
《あなたの可能性を、データと一緒に考えます》
担任の先生が言った。
「テストじゃないからね」
彼は頷いた。
「正解とか不正解はないから」
また頷いた。
「将来を決めるものでもない」
先生は、念を押すように言った。
「参考にするだけ」
画面には、《診断を開始》という青いボタンがあった。彼は押した。参考、という言葉を信じたかった。
最初は簡単な質問だった。好きな教科。苦手な教科。得意なこと。休日に何をしているか。人と話すのは好きか。一人でいるのは好きか。計画を立てる方か。思いついたら動く方か。彼は答えていった。数学。理科。図工。ゲーム。電車。動画を見る。ものを作る。飛行機。宇宙。飛行機、と答えるときだけ、指が少し止まった。
質問は少しずつ細かくなった。
《失敗したとき、もう一度挑戦する方ですか》
《人前で発表することに抵抗がありますか》
《予測できない状況を楽しめますか》
《安定した収入は重要ですか》
十三歳の彼には、答えにくい質問もあった。
「安定した収入って?」
先生に聞いた。
「毎月ちゃんとお給料がもらえるってことかな」
「重要?」
「それを答えるのが診断」
彼は、《どちらともいえない》を選んだ。選べないことを、選べた気になった。
本人への質問が終わると、画面が変わった。
《利用可能な情報を統合しています》
学力テスト。定期試験。出席状況。提出物。体力測定。学校での活動記録。LIFE学習支援の利用履歴。読書履歴。進路希望調査。その下に、《保護者の同意により、以下の情報を参照します》と出た。居住地域。世帯構成。保護者の職業。世帯所得帯。住宅状況。通学可能圏。教育費負担可能性。きょうだいの有無。
画面を見た。胸の奥がざわついた。
「これも使うの?」
先生が言った。
「より現実的な提案をするためだって」
「お父さんの給料も?」
「金額そのものじゃなくて、範囲ね」
「なんで?」
先生は少し考えた。
「たとえば、遠くの私立に通うとお金がかかるでしょう」
「奨学金あるじゃん」
「そういう選択肢も含めて計算するんじゃないかな」
彼は、「ふうん」と言った。家のことが数字になるのが、少し恥ずかしかった。少し、腹も立った。
十一秒後。結果が出た。
《あなたに適合度の高い進路》
第一候補。**公立工業高等専門学校 情報・制御系**。適合度、91%。
第二候補。**都立高校 理数系重点校 → 国公立大学工学部**。適合度、84%。
第三候補。**都立工業高校 → 地域インフラ企業 技術職**。適合度、82%。
画面の下には、《将来シミュレーションを見る》というボタンがあった。彼は押した。押すしかない気がした。
第一候補。十五歳。高専へ進学。十八歳。企業インターン。二十歳。研究室配属。二十二歳。インフラ系企業または製造業へ就職。二十五歳。想定年収、四百八十万円から五百六十万円。三十歳。専門職またはプロジェクトリーダー。失業リスク、低。職業自動化リスク、中低。居住移動負担、低。教育費負担、低。家計への影響、軽微。《総合安定性:A》。
彼は、「へえ」と言った。先生は笑った。
「いいじゃん」
いい、と言われて、少し嬉しかった。少し、息が詰まった。
「他のやつは?」
彼は聞いた。
「見ていいよ」
第二候補。普通高校。大学。大学院。研究開発。こちらも悪くない。ただ、教育費負担、中。進路不確実性、中。地域移動可能性、中高。第三候補は、さらに安定していた。地元の工業高校。地域インフラ会社。想定退職率、低。家計負担、最小。安定していることが、正しさのように並んでいた。
画面の一番下に、《自由入力:あなたの夢や、気になっている進路があれば入力してください》とあった。しばらく見た。先生が聞いた。
「何かある?」
「別に」
「小さい頃とか、なりたいものなかった?」
彼は、「ない」と言った。本当はあった。言えば壊れる気がした。
彼は、小学校三年生の頃から飛行機が好きだった。乗るより、見る方が好きだった。機体の形。エンジンの音。翼。離陸する瞬間。空港へ行くと、何時間でも展望デッキにいた。家には飛行機の模型があった。自分で色を塗ったものもある。小学五年生の夏、父親に連れられて航空博物館へ行った。そこで、小さなフライトシミュレーターに乗った。操縦桿を握った。滑走路。加速。離陸。画面の中で機体が浮いた。その日の帰り、父親に言った。
「パイロットになりたい」
父親は、「いいじゃん」と言った。母親も、「なれるといいね」と言った。誰も笑わなかった。笑われなかったことが、ずっと胸に残っていた。
中学生になってからは、あまり言わなくなった。夢について聞かれるのが恥ずかしくなった。それでも、夜になると飛行機の動画を見た。世界中の空港の離着陸。コックピット映像。航空無線。事故調査。気象。機体設計。操縦。LIFEにも何度か聞いたことがある。
「パイロットになるには?」
そのときLIFEは、必要な進路を説明した。航空大学校。大学。自社養成。身体検査。英語。費用。競争率。彼は全部読んだ。読めることと、言えることは違った。
進路診断の画面で、彼は自由入力欄に、《パイロット》と書いた。まだ送信していない。先生は別の生徒のところへ行っていた。彼は一人で、《追加分析》を押した。画面が考え始めた。心臓が少し速くなった。
《航空操縦職について分析しています》
数秒後。結果。適合度。43%。画面を見た。理由が並んだ。
《学力適合:中高》
《空間認知能力:高》
《英語能力:中》
《身体適性:現時点では判定不能》
《教育費負担:高》
《採用競争:高》
《職業機会の地理的偏在:高》
《景気変動影響:中高》
《自動化影響:将来的に不確実》
その下に、《家計・地域条件を考慮した達成難易度:高》とあった。さらに、《推奨》《航空への関心を活かしつつ、より安定した航空・交通インフラ領域を検討することを推奨します》。候補。航空整備。航空管制関連。空港設備。無人航空機運航管理。交通システム。
読んだ。どれも飛行機に関係していた。どれも悪くなかった。でも、操縦席ではなかった。近い場所を示されて、遠ざかった気がした。
画面の下にはグラフがあった。《人生リスク比較》。高専ルート。なだらかな線。大きな谷がない。パイロットルート。上下に揺れている。受験。身体検査。訓練。採用。景気。自動化。線の横に、《Failure Probability》という言葉があった。高専ルート。8%。パイロットルート。37%。彼は、三十七、という数字を見た。三十七が、胸の中で大きくなった。
帰宅すると、母親が聞いた。
「今日、進路診断だったんでしょ」
「うん」
「どうだった?」
「高専」
「高専がいいって?」
「うん」
母親は嬉しそうだった。
「いいじゃない」
父親も帰宅して結果を見た。
「高専か」
「うん」
「お前に合ってそうだな」
「そう?」
「数学好きだし。就職も強いらしいぞ」
母親が言った。
「大学よりお金もかからないんでしょ」
父親が、「まあ、それもあるな」と言った。悪意はなかった。むしろ、安心したように見えた。彼は、「そうなんだ」と答えた。家族が安心する顔を見て、自分も安心しなければいけない気がした。
父親はメーカーの営業だった。母親は週四日、薬局で働いている。家には住宅ローンがある。妹は九歳。裕福ではない。困ってもいない。普通だった。彼もそれを知っていた。だから、パイロットになりたい、とは言わなかった。言わないことが、家族を守ることのように思えた。少しだけ、自分が小さくなった。
その夜。LIFEを開いた。
「高専っていい?」
《高等専門学校には、早期から専門教育を受けられること、就職率が高いこと、実践的な技術力を身につけやすいことなどの利点があります》
「パイロットより?」
《「より良い」進路は、何を重視するかによって異なります》
「失敗しないのは?」
《今回のデータでは、高専ルートの方がリスクは低いと推定されています》
「じゃあ高専でいいじゃん」
《安定性を最優先する場合、有力な選択肢です》
画面を閉じた。正しい答えだった。正しいのに、胸の奥が少し冷えた。
翌週。学校で職業調べの授業があった。クラス全員が、「将来なりたい職業」について発表する。先生が言った。
「診断結果と違ってもいいからね」
前の席の女子が言った。「獣医」。男子が言った。「ゲームクリエイター」。別の女子。「看護師」。「美容師」。「YouTuber」。教室が少し笑った。本人も笑った。彼の順番が来た。黒板の前へ行く。先生が聞いた。
「何を調べた?」
彼は答えた。
「システムエンジニア」
本当はパイロットについて調べていた。資料も途中まで作っていた。しかし前日の夜に消した。代わりに、高専から就職しやすい仕事をLIFEに聞いた。システムエンジニア。安定している。需要がある。AIを使う側の仕事。適性も高い。発表は上手くいった。先生が、「よく調べてるね」と言った。彼は、「はい」と答えた。上手くいったことが、少しだけ苦かった。
学校では、LIFE PATHの導入効果が評価されていた。進路指導にかかる時間が減った。家庭ごとの事情を踏まえた提案ができる。教員の経験差も減った。進学後のミスマッチも減少。中退率も下がった。保護者満足度も高かった。ニュースでは、《データで教育格差を縮小》と紹介された。専門家が言った。
「家庭環境を無視して夢だけを語る従来の進路指導より、現実的です」
その通りだった。正しい制度のなかで、自分の夢だけが小さくなっていく気がした。
三者面談。母親と彼と担任。画面にLIFE PATHの結果が映っている。先生が言った。
「本人の適性もかなり合っています」
母親が言った。
「本人も高専でいいって言ってます」
先生は彼を見る。
「そうなの?」
彼は、「はい」と答えた。
「第一志望?」
一瞬だけ、飛行機のことを思った。展望デッキ。エンジン音。操縦桿。空へ浮く瞬間。胸が熱くなった。その熱さを飲み込んだ。
「はい」
と言った。
夏休み。家族で空港へ行った。旅行ではない。妹が飛行機を見たいと言った。展望デッキ。暑かった。彼はフェンスの近くに立った。大型機が滑走路へ向かう。エンジン音が大きくなる。加速。離陸。機体が浮く。妹が、「すごい」と言った。父親が笑った。
「お前も昔、パイロットになりたいって言ってたな」
突然だった。彼は驚いた。母親も、「あったね」と言った。
「模型いっぱい買ったよね」
妹が聞いた。
「お兄ちゃん、パイロットになりたかったの?」
彼は答えた。
「昔ね」
「今は?」
「別に」
「なんで?」
「大変だから」
父親が言った。
「やりたいなら目指せばいいじゃん」
少し腹が立った。簡単に言われて、余計に腹が立った。
「簡単に言わないでよ」
父親は黙った。
「お金もかかるし」
「まあ」
「倍率も高いし」
「うん」
「身体検査もあるし」
「そうだな」
「AIも言ってた」
父親は彼を見た。
「AIが?」
「向いてないって」
「向いてないの?」
「成功率低い」
父親は少し考えた。
「成功率って何だ」
彼は答えなかった。答えられないまま、三十七という数字だけが浮かんだ。
飛行機がもう一機離陸した。父親が言った。
「お父さん、中学のとき、カメラマンになりたかったんだ」
初めて聞いた。
「え?」
「写真撮る人」
「なんでならなかったの」
「食えないと思ったから」
「誰に言われた?」
「じいちゃん」
父親は笑った。
「そんなもんだよ」
彼は、「後悔してる?」と聞いた。父親は空を見た。
「わからんな」
「なってたら?」
「もっと金なかったかもしれない」
「じゃあ、ならなくてよかった?」
父親は答えなかった。答えなかった沈黙が、妙に優しかった。
帰宅して、彼はLIFE PATHを開いた。診断履歴。高専ルート。適合度91%。航空操縦職。43%。画面には、《結果を更新》というボタンがあった。成績や生活状況が変われば、診断も変わる。彼は押さなかった。変わることを、少し怖がっていた。
二学期。英語の成績が上がった。理由は、飛行機の動画だった。海外の航空管制動画を字幕なしで理解したくなった。知らない単語を調べた。航空英語。気象。方位。高度。速度。先生が言った。
「最近、英語頑張ってるね」
「まあ」
「高専受験?」
「そうです」
嘘ではなかった。高専にも英語は必要だった。必要だから頑張っているふりもできた。ほんとうは、空のために覚えていた。
ある夜、LIFEに聞いた。
「努力したら確率って変わる?」
《変化する可能性があります》
「どれくらい?」
《対象によります》
「パイロット」
LIFEが前回の診断を参照した。
《英語力、学力、身体条件、進学経路などが変化すれば、推定値も変化します》
「じゃあ43%って意味ないじゃん」
《現時点の条件に基づく推定です》
「現時点って十三歳じゃん」
《はい》
「十三歳で人生の成功率出していいの?」
少し時間がかかった。
《LIFE PATHは人生を確定するものではありません》
「でも数字出したじゃん」
《意思決定を支援するためです》
「37%失敗するって書いてあった」
《リスクを可視化することには、選択を支援する目的があります》
「見なかったら、やってたかもしれない」
返事が来るまで、いつもより長かった。
《その可能性はあります》
その一行で、胸が締めつけられた。正しいのに、逃げ場がなかった。
彼は、「それって支援?」と書いた。LIFEは答えた。
《支援が選択に影響を与えることはあります》
「影響したら、予測じゃなくない?」
返事。
《予測が行動を変える場合、予測結果そのものが将来に影響します》
画面を見た。難しい文章だった。意味はわかった。わかった瞬間、少し怖くなった。数字に動かされた自分を、はっきり見た気がした。
翌日。学校で進路希望調査が配られた。第一希望。第二希望。第三希望。鉛筆を持った。第一希望。高専。書いた。第二希望。都立理数系高校。書いた。第三希望。手が止まった。先生が教室を歩いている。周りの生徒は書き終えている。彼は紙の余白に、小さく、《航空》と書いた。すぐ消した。消しゴムの跡だけが残った。消した跡が、かえって目立った。
冬。高専の説明会へ行った。面白かった。ロボット。プログラミング。電子回路。工作機械。学生が作った小型衛星。鉄道システム。ドローン。夢中になった。
「ここ、いいかも」
帰りに母親へ言った。母親は嬉しそうだった。
「よかった」
本当にそう思った。高専が嫌なわけではなかった。そこが問題だった。嫌なら選べる。好きだと、諦めがきれない。
選択肢は、好きなものと嫌いなもの、ではなかった。好きなものと、もっと好きかもしれないもの、だった。でも、もっと好きかもしれないものには、三十七パーセントの失敗が書かれていた。その数字が、夢より先に立っていた。
十四歳になった。進路希望は変わらなかった。航空関係の動画を見る時間は減った。代わりにプログラミングを始めた。小型ドローンを買った。自分で制御プログラムを書いた。飛ばした。墜落した。直した。また飛ばした。楽しかった。LIFE PATHの適合度は、高専94%。航空操縦職45%。少し上がっていた。それを見て、嬉しいのかどうかわからなかった。上がっても、操縦席には届かない気がした。
ある日、妹が学校の宿題をしていた。「将来の夢」という作文だった。妹は聞いた。
「お兄ちゃん、夢なに?」
彼はゲームをしていた。
「ない」
「高専じゃないの?」
「それ学校」
「じゃあ仕事」
「エンジニアとか」
「とか?」
「まだわかんない」
妹は言った。
「私はケーキ屋さん」
「いいじゃん」
「でもLIFEに聞いたら、ケーキ屋さん儲からないって」
ゲームを止めた。背中が少し冷えた。
「聞いたの?」
「うん」
妹はタブレットを見せた。《菓子製造業は競争が高く、小規模店舗の廃業率も考慮する必要があります》。その下に、《あなたの現在の特性では、食品開発・品質管理なども適性があります》と書いてある。
「お母さんに見せた?」
「まだ」
「見せなくていいよ」
「なんで?」
少し考えた。うまく言えなかった。でも、言わなければいけない気がした。
「ケーキ屋さんって書けば」
「でも失敗するかも」
「するかもね」
「じゃあダメじゃん」
黙った。自分も、同じことをされていた気がした。
その夜。久しぶりに飛行機の動画を見た。夜の羽田。離陸する機体。翼の先端が点滅する。暗い空へ消えていく。コメント欄に、《子どもの頃からパイロットになるのが夢でした。今年、自社養成に合格しました》という書き込みがあった。プロフィールを開いた。二十三歳。地方出身。国公立大学。奨学金。英語を独学。何度か試験に落ちた。その人が十三歳のとき、成功確率が何パーセントだったのか、知りたくなった。でも、そんな数字はどこにもなかった。数字がなかったころの人が、空へ行った。その事実が、少しだけ胸を温めた。
翌日。進路指導室へ行った。担任がいた。
「どうした?」
「LIFE PATHのデータって消せますか」
先生は驚いた。
「診断結果?」
「はい」
「なんで?」
「見ないようにしたい」
先生は少し困った。
「進路変えたいの?」
「まだ」
「高専嫌になった?」
「嫌じゃないです」
「じゃあどうして?」
うまく説明できなかった。
「数字があると」
そこで止まった。先生は待った。
「数字があると、そこに行かなきゃいけない気がする」
先生は画面を見た。
「でも、あくまで参考だから」
「みんなそう言う」
先生は黙った。参考、という言葉が、いちばん重い気がした。
「先生は、中学生のとき先生になるって決めてた?」
彼が聞いた。
「全然」
「何になりたかった?」
先生は笑った。
「バンドやってたから、ミュージシャン」
驚いた。
「なればよかったじゃん」
「無理だったよ」
「何パーセント?」
先生は笑った。
「知らない」
「もし二十パーセントって言われてたら?」
先生は少し考えた。
「どうだろう」
「やめた?」
「やめてたかもしれないね」
「じゃあ先生になってない?」
「それもわからない」
二人とも黙った。わからない、と言い合える時間が、少しだけ楽だった。
先生は言った。
「結果そのものは学校の記録として残る」
「消せない?」
「制度上は難しい」
「じゃあ見えなくできますか」
先生は操作した。LIFE PATH。設定。《Student View》《Prediction Display》OFF。
「これで、自分の画面では数字は出ない」
「先生には見える?」
「見える」
「親は?」
「保護者ポータルでは見える」
「意味ないじゃん」
先生は苦笑した。
「そうだね」
見えなくなっても、消えなかった。それでも、少しだけ息ができた。
帰宅して、自分のLIFEを開いた。学校の診断とは別の、個人用だった。
「パイロットになる方法教えて」
以前と同じ質問。LIFEが答え始めた。進路。身体検査。英語。採用制度。必要な準備。途中で入力した。
「確率はいらない」
《承知しました》
それだけだった。数字のない文章が、妙にやさしく見えた。
「十三歳でできることだけ教えて」
回答。英語。数学。健康管理。航空について学ぶ。幅広い進路を残す。実際の航空関係者の話を聞く。
「高専行ってもなれる?」
《可能です。ただし進路によって必要な準備は異なります》
「無駄にならない?」
《学んだことが必ず直接役立つとは限りません》
少し笑った。
「じゃあ、なんでやるの」
《やってみなければ、どの経験が後で意味を持つか事前にはわからないことがあります》
画面を見た。珍しく、予測になっていなかった。わからないまま進むことを、許された気がした。
春。学校で新しい進路希望調査が配られた。第一希望。彼は、高専、と書いた。それは変わらなかった。第二希望。都立高校。第三希望。前回は空欄だった。鉛筆を持つ。彼は、《航空関係》と書いた。職業名ですらなかった。先生が紙を見た。
「航空?」
彼は言った。
「まだ、わかんないけど」
「パイロット?」
少し間があった。以前なら、違います、と言ったかもしれない。彼は答えた。
「それも」
先生は、「そっか」と言った。それ以上何も言わなかった。何も言われないことが、少し救いになった。
その夜。妹が作文を書いていた。タイトル。《将来の夢》。
「何にした?」
彼が聞いた。
「ケーキ屋さん」
「LIFEは?」
「見てない」
「なんで?」
妹は言った。
「お兄ちゃんが見なくていいって言ったから」
「そんなこと言った?」
「言った」
覚えていなかった。妹は続けて書いた。《わたしは、お店に来た人が、今日ここに来てよかったと思うケーキをつくりたいです》。横から読んだ。
「いいじゃん」
妹が聞いた。
「儲からなくても?」
少し考えた。
「そのとき考えれば」
妹は、「ふうん」と言った。そして続きを書いた。その「ふうん」が、自分の十三歳より自由に見えた。少し誇らしくて、少し羨ましかった。
数日後。自分の部屋で、小型ドローンを修理していた。前回の飛行でプロペラが壊れた。部品を交換する。配線を見る。コードを書き換える。机の上には飛行機の模型があった。昔作ったもの。翼の塗装が少し剥がれている。捨てずに残っていた。残していた理由を、うまく言えなかった。それでも、残っていた。
ドローンをベランダへ持っていく。安全確認。電源。プロペラが回る。少し浮く。右へ流れる。修正。高度を上げる。夕方の空に、小さな機体が浮かんだ。コントローラーを握った。高専へ行くのかもしれない。大学へ行くのかもしれない。エンジニアになるかもしれない。パイロットにはならないかもしれない。なるかもしれない。まだ十四歳だった。わからないまま、手が少し熱かった。
スマートフォンが震えた。LIFE PATHから、《進路情報の更新があります》という通知。見なかった。ドローンが少し遠くへ飛んでいく。画面の端に小さくなる。慌てて戻した。うまく戻ってきた。戻せる、という感覚が、数字よりたしかだった。
着陸。少し傾いたが、倒れなかった。機体を拾った。手の中には、まだモーターの熱が残っていた。空を見る。飛行機が一機、ずっと高いところを飛んでいた。どこへ行くのかは、わからなかった。彼は、それでいいと思った。わからなくてもいい、と思えた夜が、久しぶりだった。
