アオイは、服を捨てるのが苦手だった。サイズが合わなくなった服。袖口が少し伸びた服。小さなシミが落ちなくなった服。もう着ないのに、捨てようとすると手が止まる。
「また取ってあるの?」 母親に言われた。 「うん」 「着ないでしょ」 「たぶん」 「じゃあ捨てれば?」 それができない。特別な思い出があるわけでもない。高い服でもない。まだ服なのに、急にごみになるのが変な気がした。
部屋のクローゼットには、透明なケースが一つあった。母親は「そこだけなら」と言っていた。もう着ない服を入れていた。小学校五年生のときのパーカー。運動会で着たTシャツ。一度しか着なかったワンピース。父親が旅行のお土産に買ってきた、少し変な色のスウェット。見るたびに「これはもういらないな」と思う。捨てない。ケースは、もうほとんどいっぱいだった。
ある土曜日、母親が言った。 「今日は服整理するよ」 嫌な予感がした。リビングに、家族の服が集められた。着る。捨てる。売る。三つに分ける。父親は早かった。シャツを持って「これは捨てる」。次。「これは着る」。次。「これも捨てる」。アオイは、一枚ずつ時間がかかった。 「それ小さいじゃん」 「うん」 「じゃあ売る?」 「売れるかな」 「無理なら処分」 処分。その言葉が、あまり好きではなかった。 「これ、どこ行くの」 「どこって?」 「捨てたあと」 「燃えるんじゃない?」 母親が言った。父親が「服は資源回収じゃなかった?」と言った。二人とも、よく知らなかった。アオイは手に持っていたTシャツを、また「着る」の山に置いた。 「着ないでしょ」 「部屋着にする」 母親が笑った。 「部屋着、何十枚あるの」
午後、売ることになった服を持って、家族でリユースショップへ行った。大きな箱に、服を一枚ずつ入れる。店員が「査定に少しお時間いただきます」と言った。店内を見て回る。たくさんの古着が並んでいた。知らない人のジャケット。知らない子どものシャツ。知らない人のスカート。
青いカーディガンを一枚、手に取った。タグを見る。少し毛玉がある。袖口に、小さな糸のほつれ。ポケットの中に手を入れた。何も入っていなかった。誰かが、ここに手を入れていたのだと思った。服には、何も書いていなかった。
査定が終わった。家族全員の服で、二千三百円。 「安いね」 父親が言った。 「捨てるよりいいじゃない」 母親が言った。 「売れなかった服は?」 「お持ち帰りいただくか、こちらで引き取ることもできます」 「引き取ったらどうなるんですか」 店員は少し考えて、「再利用できるものは再利用して、難しいものはリサイクルなどになります」と答えた。など。アオイは、その「など」が気になった。
帰りの車で、スマートフォンで調べた。古着。回収。リサイクル。輸出。再販売。ウエス。繊維。廃棄。焼却。一枚の服にも、たくさんの行き先があった。自分が出した服がどこへ行ったかは、わからない。 「お母さん」 「なに?」 「さっきの服、誰か着るかな」 「着るんじゃない?」 「誰が?」 「知らないよ」 「どこの人?」 「知らないって」 母親は笑った。それで会話は終わった。
数日後、家庭科の授業で服について学んだ。素材。洗濯表示。縫い方。環境への負荷。先生が「服はできるだけ長く大切に着ましょう」と言った。そのあと、「着なくなった服は、リユースやリサイクルを利用するのもいいですね」と続けた。アオイは手を挙げた。 「リユースした服って、どこに行くんですか」 「お店で誰かが買ったりしますね」 「売れなかったら?」 「リサイクルされる場合もあります」 「何になるんですか」 「別の繊維製品になったり、工業用の布になったり、いろいろですね」 「どの服が何になったかわかりますか」 先生は少し考えた。 「一枚ずつ追いかけるのは難しいかな」 やっぱり、と思った。
その日の帰り、駅前の古着屋に寄った。何かを買うつもりはなかった。ただ、服を見た。店の奥に、古いデニムジャケットがあった。胸ポケットの裏に、小さく名前が書かれていた。油性ペンで、K.M とある。消そうとした跡もあった。アオイは、その文字をしばらく見ていた。 「気になります?」 店員が近づいてきた。 「あ、はい」 「70年代のものですよ」 「70年代?」 「たぶんですけどね」 自分より、ずっと年上の服だった。 「誰が着てたかわかるんですか」 「そこまではわからないですね」 「この名前は?」 「前の持ち主かもしれませんね」 店員は、気にした様子もなく言った。もう一度、K.M を見た。服は残っている。人は消えている。
家に帰って、クローゼットのケースを開いた。パーカー。Tシャツ。ワンピース。スウェット。翌日、着られなくなった白いパーカーを一枚出した。タグの裏に、小さく書いた。
2026 / A
それだけ。母親が見て聞いた。 「何それ」 「なんとなく」 「名前書いたの」 「名前じゃない」 「じゃあ何」 「ここにいたっていう印」 母親は、よくわからない顔をした。
その週末、また古着について調べていた。検索結果の途中に、見たことのないサイトがあった。
NOT YET
黒っぽい画面。
まだ名前のない未来を探す。
開いた。
気がつくと、つい考えてしまうことは?
物が捨てられたあとどこに行くか
人から「もういらないでしょ」と言われても、気になるものは?
まだ使えるもの
なくなると嫌なものは?
少し考えた。服ではない。物そのものでもない。
前に誰かが使ってたこと
未来の世界で、もっと見えるようになってほしいものは?
物が今までどこにいたか
七つの質問に答えた。画面が変わる。
POSSIBLE WORLD 01
物の履歴を残す
2046年。 服や家具や家電には、値段やブランドだけでなく、その物がどこを通ってきたか が記録されているかもしれません。いつ作られたか。誰かに使われた期間。どこで修理されたか。何回持ち主が変わったか。どんな素材が使われているか。
あなたは、物に履歴を持たせる仕事をするかもしれません。人に履歴書があるように、物にも履歴書がある世界です。
アオイは少し笑った。服の履歴書。次。
POSSIBLE WORLD 02
「捨てる」以外の行き先をつくる
未来では、物を作る仕事だけでなく、使い終わったあとを設計する仕事 が重要になるかもしれません。売る。直す。分ける。別の用途にする。素材へ戻す。誰かに渡す。一つの物に、たくさんの次の人生を用意します。
あなたは、「ごみになる前」に立って、別の道を探す人になるかもしれません。
三つ目。
POSSIBLE WORLD 03
物に残った人の気配を読む
古い物には、数字では残らないものがある。すり減った場所。縫い直した跡。名前。シミ。使い方の癖。2046年。博物館や街の記録だけではなく、普通の人が使っていた普通の物 から、過去の暮らしを読み取る仕事があるかもしれません。歴史に残らなかった人の生活を、物から見つけます。
アオイは、K.Mを思い出した。知らない人。でも、確かにいた人。
一番下に、未来へのメモを残す欄があった。書いた。
物が残るなら、その前にいた人の気配も少し残ってほしい。
送信。
学校で、服の交換会が開かれた。家庭科の先生が企画したものだった。サイズが合わなくなった服を持ってくる。ほしい人が持って帰る。アオイも、白いパーカーを持っていった。2026 / A と書いたもの。机の上に置く。しばらく誰も手に取らなかった。やっぱり持って帰ろうかな、と思った。
一年下の女の子が来た。パーカーを持ち上げる。鏡の前で合わせる。友達と何か話す。持っていった。それだけだった。アオイは声をかけなかった。「それ私のだった」と言う必要はなかった。
数日後、廊下でその子を見かけた。白いパーカーを着ていた。袖を少しまくっていた。自分が着ていたときとは、少し違って見えた。
家に帰って、ケースを開いた。まだ服はたくさんある。一枚ずつ見た。昔よく着ていたTシャツを一枚取り出した。写真を撮った。メモを書く。
小5。夏。よく着た。
それから、袋に入れた。今度、リユースショップへ持っていく。どこへ行くのかは、たぶんわからない。誰が着るのかも、わからない。
クローゼットの奥を見た。空いたハンガーを一本、端へ寄せた。何も掛かっていなかった。