ゼロに向かう音楽

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Kosuke Shirako

ゼロという言葉が、ずっと引っかかっている。

フリッパーズ・ギター『ヘッド博士の世界塔』の中に、Going Zero という言葉が出てくる。ゼロに向かう。ただの英語のフレーズなのかもしれないのに、その言葉だけが妙に残る。

松本大洋には『ZERO』というボクシング漫画がある。ボクシングは、身体の限界まで削られていく競技だ。打って、打たれて、立って、倒れて、また立つ。そこには技術や勝敗以前に、身体がどこまで自分でいられるのか、という問いがある。

そして日本語には零戦という言葉がある。正式には零式艦上戦闘機で、その「零」は年号の末尾から来た記号にすぎない。けれど言葉としての零戦には、別の響きが残っている。軽さ、速さ、美しさ、そして取り返しのつかない消失。

ゼロ、ZERO、零、0。それらは同じではない。でも、どこかで響き合っている。

ゼロは、単なる無ではない。何もない、という意味だけでは足りない。むしろゼロは、何かが消えたあとの場所であり、何かが始まる前の場所でもある。削られて、削られて、最後に残るもの。まだ意味が立ち上がる前の沈黙。名前がつく前の状態。あるいは、すべての名前が剥がれ落ちたあとに残る、ただの点。ゼロは終わりではなく、意味が立ち上がる前の沈黙なのかもしれない。

自分は、小学生の自由研究で墓石を研究していた。今思えば変な子どもだったけれど、そこにはすでに、何かがあった気がする。

墓石には名前が刻まれている。生まれた日と、死んだ日が刻まれている。その人がこの世界にいたことを、石の上に残そうとする。でも墓石の前に立つと、そこにあるのは名前だけではない。むしろ、名前になりきらなかったものの方が大きい。その人が見た空、歩いた道、食べたもの、誰かに言えなかった言葉、忘れてしまった夢。誰にも記録されなかった、無数の小さな時間。墓石は記録であると同時に、記録できなかったものの輪郭でもある。そこには、ゼロに近づいていく感覚がある。

生きているものは、やがて消える。声も、身体も、記憶も、だんだん薄くなる。けれど完全に消えるわけではない。誰かの中に、風景として、匂いとして、言葉ではなく反応として残る。

音楽も、それに近い。曲が終わり、音が消える。でも完全には消えない。耳の中に残り、身体の中に残り、次の沈黙の質を変えてしまう。音楽は、鳴っている時間だけでできているわけではない。むしろ鳴り終わったあとに残るものの方が、その曲の本体なのかもしれない。

Going Zero。ゼロに向かう音楽。それは破滅に向かう音楽でも、自分を空っぽにする音楽でも、すべてを消してしまう音楽でもない。むしろ、余計な意味を削っていく音楽だ。ジャンル、時代、流行、評価、売上、チャート、誰が聴いていたか、誰に影響を与えたか——そういうものをいったん外していく。そして最後に、なぜかまだ身体が反応してしまう一点が残る。それがゼロなのかもしれない。

松本大洋の『ZERO』に惹かれるのも、そこに勝利の物語だけではないものがあるからだと思う。強くなる話でも、勝つ話でもない。むしろ、強さそのものが限界に近づいていく話だ。身体が削られ、言葉が少なくなり、物語が細くなっていく。その先に、ただ立っている人間の輪郭が残る。ゼロとは、身体の限界でもある。もうこれ以上、言葉で説明できない場所。もうこれ以上、意味を足せない場所。そこで人は、ただ立つしかない。

零戦という言葉にも、同じような危うさがある。そこには技術の美しさと、戦争の記憶が重なっている。軽量化、速度、航続距離、空へ向かう身体。けれど、その先には国家、死、特攻、喪失がある。美しさと消失が、同じ言葉の中に入ってしまっている。だから「零」という字は、ただの数字ではない。そこには、取り返しのつかなさがある。

ゼロは、危険な言葉でもある。人を無にしてしまうこともある。命を数字にしてしまうこともある。すべてをリセットすればいい、という暴力にもなりうる。

でも同時に、ゼロは必要な場所でもある。何かを始める前に、一度そこへ戻らなければならないことがある。言葉を失うこと。わかったふりをやめること。意味を急いで立ち上げないこと。まだ名づけず、まだ選ばず、まだ決めないこと。そこにあるのは、空白ではなく待機である。

ゼロとは、HOLD に似ている。行動しないこと、判断しないこと。しかし、停止しているわけではない。何かが立ち上がる前の場を、壊さずに保っている状態だ。意味が生まれる前には、沈黙がある。その沈黙を待てるかどうか。すぐに解釈しないでいられるか、すぐに物語にしないでいられるか。ゼロに向かうとは、そこへ降りていくことなのかもしれない。

フリッパーズ・ギターの音楽には、軽さがある。引用があり、遊びがあり、ポップな表面がある。でも、その軽さの奥には、いつもどこか消失の感覚がある。世界は引用できる。スタイルは選べる。記号は並べ替えられる。でも、その中心には何があるのか。軽やかに飛び続けた先で、ふっとゼロに触れる。

それは、90年代的な感覚だったのかもしれない。豊かさのあと、高度成長のあと、バブルのあと、意味の大きな物語が崩れたあと。すべてがスタイルになり、引用になり、消費されていく中で、逆に「中心のなさ」が見えてしまう。その中心のなさを、ただの空虚としてではなく音楽として鳴らしたもの。それが、自分にとっての Going Zero だったのかもしれない。

ゼロは、暗いだけではない。ゼロには、透明さもある。もう何も持っていないからこそ、もう一度始められる場所でもある。ただし、それは明るい再出発でも、希望に満ちたスタートラインでもない。もっと静かな場所だ。何も言えなくなったあと。何かを失ったあと。説明が尽きたあと。自分が何をしたかったのかも、よくわからなくなったあと。それでも、まだ耳だけが何かを聴いている。そのとき、音楽はゼロの近くで鳴っている。

ゼロに向かう音楽とは、消えていく音楽ではない。消えるもののそばで、まだ鳴っている音楽である。

墓石の前に立つ子ども。リングの上で立ち続ける身体。空へ向かう機体。都市の中で鳴るポップソング。引用され、消費され、忘れられていく記号。そして、その奥にある、まだ名前のない沈黙。それらが、自分の中で「0」という一点に集まっている。

ゼロは、終わりではない。でも、始まりでもない。ゼロは、その手前にある。意味が立ち上がる前、物語になる前、誰かに説明する前。まだ、自分でもわかっていない場所。

自分は、ずっとそこを見ていたのかもしれない。小学生の自由研究で墓石を見ていたときから。音楽を聴きながら、消えていくものに反応していたときから。「Going Zero」という言葉に、なぜか引っかかったときから。

ゼロに向かう音楽。それは、無へ向かうことではない。意味が生まれる前の沈黙に、もう一度耳を澄ませることなのだと思う。


© SHIRO & Co.

First published: 2026-05-30