永遠ではない太陽を、今日も見る
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— 人も地球も消える世界で、いまを信じること—
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Kosuke Shirako
駅の階段やエスカレーターで、人の群れを見ているとき、ふと考えることがある。
ここにいる人たちも、いつか全員いなくなる。会社へ向かう人も、学校へ急ぐ子どもも、買い物袋を持った高齢者も、スマートフォンを見ながら歩く若者も、いつかこの世界から消えてしまう。もちろん、自分もそうだ。
いまは、それぞれに用事がある。今日中に終えなければならない仕事があり、返信しなければならないメールがあり、買わなければならないものがある。誰かに腹を立てたり、先のことを心配したり、もう少しお金があればと思ったりしている。
けれど、長い時間のなかで見れば、そのすべては消えていく。人も、会社も、制度も、街も、国も消える。
そう考えると、目の前を行き交う人々が、急に不思議な存在に見えてくる。この人たちは、永遠に続く日常を生きているのではない。限られた時間のなかで、今日という一日を生きている。それでも人は、明日も同じ世界が続くものとして暮らしている。
「どうせみんな消える」の、その先
最近、ぼくは「どうせみんな消えるのに」と考えることが増えた。それは、投げやりな気持ちとは少し違う。どうせ消えるのだから、何をしても無駄だ、ということではない。
むしろ反対に、消えてしまうものを、なぜ人はこれほど大切そうに抱えているのだろう、と思う。
名前。肩書。財産。評判。勝ち負け。正しさ。生きているあいだ、それらはとても重大に見える。人はそれを得ようとして争い、失うことを恐れ、ときには他人を傷つける。
けれど、本人が消え、その人を知る人も消え、記録さえ読まれなくなれば、多くのものは意味を失っていく。人間の時間だけを考えても、永遠はない。
ところが、糸井重里さんは、そこからさらに遠くを見ていた。人間がいつかいなくなるだけではない。地球にも終わりがあり、太陽にも寿命がある。ぼくらの生活をずっと照らしてきた太陽も、永遠にそこにあるわけではない。
これは、ずいぶん大きな話だ。「親と金はいつまでもあると思うな」という身近な教訓を、そのまま宇宙まで広げるなら、こうなる。
ぼくらの永遠にも、限りがある。
自分が消えたあとも、世界だけは永遠に続いていく。ぼくたちは、どこかでそう考えている。自分はいなくなる。けれど、東京の街は残り、海は波を打ち、地球は太陽のまわりを回り続ける。世界は何事もなかったように続いていく。
しかし、本当は、世界の側も永遠ではない。人間だけが途中で退場するのではない。舞台そのものも、いつか姿を変える。
世界が終わると思っていたころ
かつて日本には、世界がまもなく終わると、どこかで信じられていた時期があった。ノストラダムスの大予言である。
1973年、五島勉の『ノストラダムスの大予言』が刊行された。そこでは、ノストラダムスの詩に登場する「1999年七の月」が、人類滅亡を示すものとして解釈された。公害や資源問題など、発展の先に明るい未来だけがあるとは思えなくなっていた時代に、この本は大きな社会現象となった。刊行後短期間でミリオンセラーとなり、その後も続編が刊行された。
子どものころ、それをどこまで本気で信じていたのかは、よくわからない。毎日、世界の終わりに怯えていたわけではない。学校へ行き、テレビを見て、友だちと遊びながら、一方では、1999年になったら本当に世界が終わるかもしれないと思っていた。
大人になる未来を想像しながら、その未来は途中で切れてしまうかもしれないとも思っていた。いま振り返ると、不思議な時代だった。世界の終わりが、遠い宗教の物語ではなく、カレンダーに書き込める日付として存在していた。1999年7月。そこまであと何年かを数えることができた。世界の終わりには、締め切りがあった。
もうひとつの「1999年」
ノストラダムスの大予言とは別に、ぼくにとって「1999年」という数字には、もうひとつの映像が重なっている。金子修介監督の映画『1999年の夏休み』である。
この映画が公開されたのは1988年3月。実際の1999年より、十一年も前だった。山と湖に囲まれた全寮制の学院を舞台に、夏休みに残った少年たちと、死んだ少年に瓜二つの転入生をめぐる物語が描かれる。四人の少年役を、当時十代の少女たちが演じていた。
この映画の1999年には、ノストラダムスのような恐怖の大王は現れない。空から何かが降ってくるわけでも、都市が炎に包まれるわけでもない。それでも、映画のなかには、世界の終わりに似た静けさがある。
人のいなくなった学院。時間の止まった夏休み。水辺。死んだ少年に似た少年。同じ出来事が、少し形を変えて繰り返されるような感覚。
世界は破壊されていない。ただ、外の世界とのつながりが薄くなり、残された者たちだけで、小さな宇宙が閉じている。
ノストラダムスの大予言が、世界の終わりを社会全体の出来事として語ったのに対して、『1999年の夏休み』は、一人が消えることによって、その人を中心にしていた世界が終わることを描いていたように思う。
人類が滅亡しなくても、世界は終わる。大切な人がいなくなれば、その人と共有していた世界は終わる。学校を卒業すれば、教室の世界は終わる。家族の形が変わり、住んでいた家を離れれば、かつての日常も終わる。会社を辞めれば、毎日会っていた人たちは、少しずつ他人へ戻っていく。
世界の終わりは、一度だけ来るのではない。 ぼくたちは生きながら、いくつもの小さな世界の終わりを経験している。
『1999年の夏休み』の夏は、いつまでも続いているように見える。けれど、夏休みという言葉には、最初から終わりが含まれている。休みは、いつか終わる。少年は大人になる。あるいは、大人になる前にいなくなる。夏の光はまぶしいが、その光のなかには、すでに失われる未来が混ざっている。
だから、この映画のタイトルにある「1999年」は、単なる未来の年号ではなかったのだと思う。それは、いつか来る世界の終わりを示す数字でありながら、終わる直前の夏を、永遠に保存するための数字でもあった。
「新世紀」の前に、世界は一度終わった
そして、1999年が近づくころ、もうひとつの終末の物語が現れた。『新世紀エヴァンゲリオン』である。
テレビシリーズは1995年に始まり、その別の結末を描く『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』は、1997年7月19日に公開された。公式には、テレビシリーズの最終二話を本来の形で描いた劇場用新作と位置づけられている。
ノストラダムスが予言した1999年7月まで、あと二年だった。もちろん、『エヴァンゲリオン』がノストラダムスの予言を直接扱った作品だということではない。けれど、それを見ていた側にとって、両者はまったく無関係でもなかったように思う。
世紀末。新世紀。人類の終わり。巨大な災害。文明の崩壊。それらの言葉が、フィクションのなかだけに閉じていなかった時代である。
世界は、もうすぐ何か大きな境界を越える。二十世紀が終わり、新しい千年紀が始まる。しかし、その「新世紀」は、明るく清潔な未来としてだけ想像されていたわけではない。
『エヴァンゲリオン』の世界では、人類はすでに「セカンドインパクト」と呼ばれる破局を経験している。物語は、世界が終わる直前から始まるのではない。世界が一度壊れたあとから始まる。
海は変わり、多くの人が失われ、都市は次の破局に備える要塞になっている。それでも、子どもは学校へ行く。電車は走る。コンビニがあり、食卓があり、誰かと一緒に暮らす日常がある。
世界は終わったのに、生活だけは続いている。これは、いま振り返ると、とても現代的な感覚である。終末とは、ある瞬間にすべてが消えることではない。 何かが決定的に壊れたあとも、人は翌朝に起き、仕事や学校へ行き、壊れた世界のなかで生活を続ける。
エヴァンゲリオンが描いていたのは、破滅そのものだけではない。破滅後にも終わらない日常だった。
孤独をなくすために、人間をなくす
『Air/まごころを、君に』では、その終末がさらに内側へ入っていく。都市や組織が崩壊するだけではない。人間は一人ひとりの身体を失い、自分と他人を隔てていた境界が溶けていく。
他人に拒絶されることもない。誤解されることもない。傷つけられることもない。自分と他人の境界そのものをなくしてしまえば、孤独もなくなる。しかし、それは同時に、一人ひとりの人間が消えることでもある。
痛みをなくすために、個人をなくす。孤独を終わらせるために、人間そのものを終わらせる。
ノストラダムスの終末では、恐怖の大王が外からやって来る。エヴァンゲリオンの終末は、人間の内側から始まる。他者と一緒に生きることが苦しい。しかし、他者がいない世界にも耐えられない。完全に理解し合うことはできない。それでも誰かに理解されたい。
その矛盾を終わらせるために、世界全体をひとつへ戻そうとする。それは「みんなが消える」というより、みんなの境界が消えてしまう終末だった。誰もいなくなるのではない。誰が誰なのかが、わからなくなる。
それでも、他人のいる世界へ戻る
『Air/まごころを、君に』が残酷なのは、世界の終わりを描いたからだけではない。人が再び個人として生きる可能性も、最後に残しているからだ。
個人として存在するかぎり、人はまた傷つく。拒絶されるかもしれない。相手の気持ちは、完全にはわからない。愛していても、同じものにはなれない。それでも、自分と他人が別々に存在する世界へ戻る。
完全に理解し合える永遠よりも、誤解や痛みのある有限な世界を引き受ける。そこには、今回考えている「いまを信じること」と近いものがある。
世界が安全だから、生きるのではない。人間関係が壊れないから、誰かといるのでもない。明日も必ず続くから、今日を生きるのではない。
壊れるかもしれない。拒絶されるかもしれない。自分も相手も、いつか消える。それでも、もう一度、他人のいる世界へ戻る。永遠ではない世界を、もう一度引き受ける。
1999年を前にした、いくつもの終末
こうして振り返ると、1999年を前にした日本には、いくつもの異なる「世界の終わり」があった。
ノストラダムスの大予言では、世界の終わりは、空から突然やって来る。
『1999年の夏休み』では、一人を失うことによって、小さな世界が静かに閉じていく。
『新世紀エヴァンゲリオン』では、すでに壊れた世界で人々が生活を続け、最後には、人間同士の境界そのものが失われていく。
予言された終末。個人的な終末。内面的な終末。
そこに共通していたのは、世界の終わりを想像しながら、同時に、そのあとに何が残るのかを考えていたことだ。世界が終わったあとにも、夏の光は残るのか。生活は続くのか。他人と、もう一度会うことができるのか。
「新世紀」という言葉には、本来、未来へ向かう明るさがある。しかし、当時の新世紀は、何かが壊れたあとに来るものとして想像されていた。新しい時代は、希望だけを携えて始まるのではない。喪失のあとに、かろうじて始まる。
1999年が過ぎたあと
1997年の夏、映画館のなかで世界は終わった。人間の身体は形を失い、自分と他人の境界も溶けていった。それでもスクリーンの外では、1999年が近づいていた。
そして、予言された1999年7月が来た。恐怖の大王は降りてこなかった。現実の世界は終わらなかった。電車はいつもどおり走り、会社は営業し、人々は次の予定を立てた。
予言は外れた。けれど、それによって、人間が世界の終わりを考えなくなったわけではない。その後も、核戦争、気候変動、感染症、巨大隕石、人工知能など、終末は別の姿で語られ続けている。
人は何度も、世界の終わりを想像する。ただ、その想像の仕方は変わっていく。
ノストラダムスの終末には、日付があった。ある日突然、空から何かが降りてきて、世界が終わる。それは恐ろしいけれど、わかりやすい終わりだった。始まる前の世界と、終わったあとの世界が、はっきり分かれていた。
けれど、実際の終わりは、おそらくもっと曖昧で、もっと長い。人類がいなくなっても、地球は残るかもしれない。地球が生命の住めない場所になっても、太陽はしばらく光り続ける。そして、その太陽もまた、永遠ではない。
ノストラダムスの予言は外れた。しかし、世界には終わりがあるという部分まで、科学が否定したわけではなかった。予言は終わりを物語にした。科学は終わりを時間にした。
太陽にも、誕生と寿命がある
太陽が永遠ではないというのは、単なる比喩ではない。
NASAによれば、太陽は約46億年前、ガスと塵の巨大な雲から形成された。現在は、その中心部で水素がヘリウムへ変わる核融合が起こり、そのエネルギーが光と熱として地球まで届いている。
しかし、その燃料も無限ではない。太陽は、その寿命のおよそ半ばにいる。今後約50億年ほどで現在の安定した状態を離れ、外側が大きく膨らむ赤色巨星へ向かう。その過程で水星と金星はのみ込まれ、地球ものみ込まれる可能性がある。最終的には外層を失い、白色矮星と呼ばれる高密度な天体が残ると考えられている。
太陽は、ある日突然、電灯のように消えるわけではない。ゆっくりと姿を変え、いまの太陽ではなくなっていく。
もちろん、それは数十億年も先の話である。ぼくたちの生活から見れば、ほとんど永遠と呼んでもよいほど遠い。それでも、無限ではない。太陽にも誕生があり、時間が流れ、やがて現在の姿を失う。
その事実を知ってから見る太陽は、昨日までと同じ太陽でありながら、少しだけ違って見える。
世界は、自分だけを置いていくのではない
死が怖い理由のひとつは、自分だけが世界から切り離されるように感じるからだと思う。
自分がいなくなったあとも、朝は来る。電車は走り、店は開き、ニュースは更新される。子どもは大人になり、新しい建物が建ち、知らない歌が流行する。自分のいない世界が、いつまでも続いていく。その非対称性が、人を寂しくさせる。
だが、太陽も地球も永遠ではないと考えると、その非対称性は少し崩れる。世界は、自分だけを置いて、無限の未来へ進んでいるのではない。世界もまた、有限な存在である。
宇宙の時間から見れば、地球も太陽も、いま存在している途中にすぎない。生まれ、変化し、やがて現在の形を失う。人間と同じではないにしても、永遠ではないという点では同じだ。
自分の死だけが、特別な失敗なのではない。この世界に現れたものは、どれもいつか姿を変える。そう考えると、少しだけ慰められる。消えるのは、自分だけではない。
同時に、途方もなく心細くもなる。最後まで残っていると思っていた大地も、海も、空も、太陽も、ほんとうは仮の姿なのだ。ぼくたちは、永遠の世界に一時的に住んでいるのではない。有限な世界のなかで、有限な時間を一緒に過ごしている。
太陽は、あまりにも毎日ある
太陽は、毎日昇る。正確には地球が回転しているのだけれど、ぼくたちの暮らしのなかでは、太陽は毎朝、空へ戻ってくる。雲で見えない日はあっても、太陽がなくなったわけではない。
あまりにも毎日あるので、ぼくたちは太陽を背景として扱っている。電気や水道よりも、さらに当然のものだ。天気予報では、晴れるか、曇るか、気温が何度になるかは気にする。けれど、太陽そのものが今日も存在していることに驚く人は、ほとんどいない。
それは、ずっと昔からそこにあり、明日も当然そこにあると思われている。けれど、永遠ではないと知った瞬間、太陽は少し違って見える。
今日も光っている。今日も地球を温めている。今日も植物を育て、海を動かし、生きものの時間をつくっている。その光は、無限に供給される背景ではない。始まりがあり、途中があり、終わりがある存在から届いている。
そう思って太陽を見ると、信仰に似た感情が湧いてくる。それは、永遠だから崇める信仰ではない。永遠ではないのに、今日もそこにあるものへの信仰だ。
永遠ではないから、ありがたい
人はこれまで、永遠に変わらないものを神聖なものとしてきた。時代を超える真理。不滅の魂。絶対的な神。永遠の愛。変わらず、壊れず、消えないものに、人は安心を求めてきた。
しかし、ぼくたちが実際に触れられるものの多くは、永遠ではない。身体は老いる。親は年を取る。子どもは大きくなる。家は傷む。街は建て替えられる。会社はなくなる。記憶も薄れていく。
永遠ではないから価値が低いのではない。永遠ではないからこそ、今日そこにあることが貴重なのだと思う。
もし太陽が永遠に存在し、何があっても決して失われないものなら、今日の光に感謝する必要はない。明日も、百万年後も、同じようにあるのだから。
けれど、終わりがあると知れば、今日の光は一回的なものになる。これは人間も同じだ。いつでも会えると思っている人にも、いつか会えなくなる。いつまでも続くと思っている家族の時間にも、終わりがある。いつも歩いている道も、いつか歩かなくなる。
だからといって、毎日を特別な記念日にする必要はない。何にでも感謝し、後悔のないように生きなければならない、と力む必要もない。そんな生き方は、かえって息苦しい。
ただ、当たり前にあるものは、本当は当たり前ではない。そのことを、ときどき思い出せばいい。
虚無と驚きの分かれ道
「どうせみんな消えるのに」という言葉は、二つの方向へ進む。
ひとつは、虚無である。どうせ消える。だから、何をしても意味がない。何をつくっても残らない。誰かを愛しても、最後には別れる。そう考えれば、人生は最初から失敗が決まっているように見える。
しかし、もうひとつの方向がある。どうせ消える。それなのに、いま存在している。
無数の偶然のあとに、自分が生まれ、誰かと出会い、同じ時代を生きている。今日も太陽が昇り、街に人がいて、家には生活の気配がある。これは、考えてみればひどく奇妙なことだ。
なぜ無ではなく、何かがあるのか。なぜ自分は、別の時代でも、別の生きものでもなく、いまここにいるのか。答えはない。けれど、答えがないからこそ、存在していること自体が驚きになる。
「どうせ消える」は、意味を破壊する言葉にもなる。同時に、意味をつくり直す言葉にもなる。
永遠に残るから意味があるのではない。短いあいだでも、そこにあったから意味がある。 誰にも記録されなくても、本人が感じたことは、なかったことにはならない。
終わりには、日付がない
ノストラダムスの時代、ぼくたちは世界の終わりを恐れていた。いま考えてみると、恐れていたのは、世界に終わりがあることそのものではなかったのかもしれない。
いつ終わるのかがわかり、そこまでの時間を数えられてしまうことが怖かったのだ。1999年7月という日付には、妙な具体性があった。それまでに何歳になるのか。どこで、何をしているのか。大人になっているのか。家族はいるのか。その未来が、ひとつの日付によって閉じられていた。
けれど、ほんとうの終わりには、ぼくたちが確認できる日付はない。自分の人生の終わりも、ある関係の終わりも、ある日常が最後になる日も、あらかじめカレンダーに印をつけることはできない。
太陽の変化には科学的な時間の見積もりがある。それでも、それはぼくたちが待ち合わせできるような「終末の日」ではない。
わからないから、人は普通に暮らすことができる。朝食を食べ、仕事へ行き、誰かと話し、次の週の予定を立てる。世界の終わりを知りながら、世界が続くように生きる。それが、人間なのだと思う。
いまを信じる
人生には、明確な後半戦があるわけではない。何歳から終盤になるのかは、誰にもわからない。長い人生を前提に計画を立てていても、ある日突然、時間が途切れることがある。
だから、すべては「終わるまでの途中」である。人間だけではない。人類も、地球も、太陽も、終わるまでの途中にいる。
そう考えると、未来を信じるということの意味も変わってくる。未来が永遠に続くと信じることではない。必ずよいことが起きると信じることでもない。
終わりがあると知りながら、それでも明日の予定を立てること。消えてしまうと知りながら、何かをつくること。いつか別れると知りながら、誰かと一緒にいること。完全には理解し合えないと知りながら、他人のいる世界へ戻ること。残らないかもしれない言葉を書くこと。
それが、いまを信じるということなのだと思う。
信じる対象は、永遠ではない。壊れるかもしれない。失われるかもしれない。忘れられるかもしれない。それでも、今日ここにある。
今日も、太陽を見る
朝、太陽を見る。それは昨日と同じ太陽に見える。けれど、昨日とまったく同じではない。太陽も、地球も、自分も、少しずつ時間のなかを進んでいる。
ぼくたちは、永遠の一日を繰り返しているのではない。二度と戻らない一日を、毎日、普通の顔をして過ごしている。
駅を歩く人たちも、今日だけの姿をしている。次の日には、少し違う服を着て、少し違うことを考え、少しだけ年を取っている。もう二度と会わない人もいるだろう。
子どものころは、世界が自分より先に終わると思っていた。1999年7月になれば、恐怖の大王が降りてきて、ぼくたちの未来を一斉に消してしまうかもしれないと思っていた。
『1999年の夏休み』では、世界は大きな音を立てずに閉じていた。夏の光と、死者の記憶と、少年たちだけを残して、外の世界は遠ざかっていた。
『エヴァンゲリオン』では、世界はすでに壊れていた。それでも人は生活を続け、最後には、傷つく可能性のある他人の世界へ戻ろうとした。
そして大人になると、自分のほうが世界より先に消えると知る。自分がいなくなっても、街は残り、電車は走り、知らない人たちの生活が続いていく。
さらに太陽のことを考えると、その先が見えてくる。自分が消えても、世界はしばらく続く。けれど、その世界も永遠ではない。
ノストラダムスの予言した世界の終わりは来なかった。『1999年の夏休み』の少年たちの夏も、永遠には続かない。エヴァンゲリオンの人類補完も、孤独を完全には救わなかった。
人の世界は、死や別れによって何度も終わる。そして、もっと長い時間で見れば、人類も、地球も、太陽も、現在の姿を失っていく。
みんな消える。街も消える。地球も変わる。太陽も、いつか、いまの太陽ではなくなる。
その事実を、大げさに悲しむ必要はない。けれど、忘れないでいたい。
みんなが消えるということは、いまはまだ、みんながここにいるということでもある。
太陽も永遠ではない。それでも今日、太陽は昇っている。
その光のなかを、有限な人間たちが歩いている。互いのことを完全には理解できないまま、傷つけたり、許したり、また会おうとしたりしている。ぼくも、そのひとりとして今日を生きている。
永遠を信じることはできない。だから、いまを信じる。
永遠ではない太陽を、今日も見る。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-07-14