記憶していない都市を、韓国の若者は懐かしんだ
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.m-flo・VERBALとm-flo・VERBALと、境界に立つ人の音楽、境界に立つ人の音楽
Kosuke Shirako
シティポップが、韓国の若い世代に聴かれている。そのことを最初に知ったとき、少し不思議な感じがした。
日本の80年代の都市音楽。山下達郎。竹内まりや。大貫妙子。松原みき。角松敏生。杏里。そうした音楽が、韓国の若者たちに再発見される。しかも、ただ古い音楽としてではない。どこか懐かしいものとして聴かれている。でも、彼らはその時代を生きていない。
日本の80年代の都市を知らない。バブル期の東京を知らない。当時の車も、広告も、カセットテープも、FMラジオも、夜の湾岸線も、百貨店も、喫茶店も、リゾートホテルも、自分の記憶としては持っていない。それなのに、懐かしむ。ここが面白い。
人は、自分が経験していないものを懐かしむことがある。古い映画。古い写真。昔の喫茶店。知らない街の夜景。親の世代の音楽。一度も住んだことのない都市。それらに触れたとき、自分の記憶ではないはずなのに、なぜか胸が動くことがある。シティポップの再発見には、そういう「記憶していない懐かしさ」がある。
日本人にとって、シティポップは失われた都市の記憶かもしれない。経済がまだ上向きだと信じられていた時代。都市が未来へ開いているように見えた時代。夜のドライブ。海沿いの道路。ガラス張りのビル。高層ホテル。レコードジャケットの洗練。リゾートへの憧れ。消費の明るさ。少し背伸びした大人の恋。
そこには、いま振り返ると、危うさもある。バブル。消費社会。都市への過信。男と女の役割。広告が作った夢。未来がずっと続くという錯覚。だから、日本人がシティポップを聴くとき、その懐かしさには少し複雑な影が入る。あの時代を美化しすぎてはいけない。でも、そこにあった都市の余白、軽さ、夜の開放感、未来の明るさのようなものが、今は失われたようにも感じる。日本にとってシティポップは、失われた都市の夢だ。
では、韓国の若者にとっては何だったのか。たぶん、それは「失われた記憶」ではない。そもそも与えられなかった余白なのかもしれない。
韓国社会は、長く強い競争社会として語られてきた。受験。就職。学歴。外見。住宅。結婚。階層上昇。成功しなければならない圧力。Hell Korea という言葉には、そうした息苦しさが込められている。
もちろん、韓国には豊かなカルチャーがある。K-POP、映画、ドラマ、ファッション、デザイン、テクノロジー。世界へ向かう力は、むしろ日本より強い部分もある。でも、その強さの裏側には、競争と最適化の疲れもある。若い人たちは、ずっと比較される。評価される。磨かれる。選別される。自分の未来を、常に設計しなければならない。
そうした社会の中で、日本のシティポップが響いたのだとしたら、それは単なるレトロ趣味ではないと思う。シティポップの中には、少しゆるい未来がある。閉じていない未来。
何者かにならなければならない、という圧力ではなく、夜の街を車で走るような未来。成功するための未来ではなく、少し遠くへ行けそうな未来。誰かと会い、音楽を聴き、海沿いを走り、まだ帰らなくてもいいような未来。そこには、余白がある。
韓国の若者が懐かしんだのは、日本の過去そのものではなく、その余白だったのかもしれない。自分たちが経験していない都市。自分たちの社会では最初から十分には与えられなかった余白。競争の速度から少しだけ外れた夜。まだ閉じていない未来。それを、シティポップの音の中に見つけた。
Night Tempo以後のシティポップ再評価は、その意味でとても興味深い。Night Tempoは、古い日本のポップスを、ただ保存するのではなく、現在の耳に届くように再編集した。昭和歌謡。シティポップ。フューチャーファンク。アニメ的な色彩。Vaporwave的なノスタルジア。インターネット以後の感覚。過去の日本の音楽が、韓国のフィルターを通って、もう一度世界へ出ていく。これは、単なる復刻ではない。代理記憶の生成だと思う。
代理記憶。自分は体験していない。でも、その音を聴くことで、あたかもどこかにあったはずの時間を思い出す。それは本当の記憶ではない。でも、偽物とも言い切れない。
人間は、メディアを通じて記憶を持つ。映画を観て、行ったことのない街を知っている気がする。音楽を聴いて、生きていない時代を懐かしむ。写真を見て、会ったことのない人の気配を覚える。記憶は、必ずしも実体験だけでできているわけではない。むしろ、現代の記憶は、かなりの部分がメディアによって作られている。韓国のZ世代が日本のシティポップを懐かしむことは、その象徴のように見える。
彼らは、日本の80年代を生きていない。でも、その音楽の中に、自分たちの社会には欠けている何かを見つける。それは、過去への逃避ではなく、別の未来への欲望かもしれない。
ここで大事なのは、シティポップが「豊かな日本」の音楽だったということだ。都市が成長し、消費が拡大し、海外への憧れがあり、車やリゾートや夜景が、未来の記号として機能していた時代。もちろん、その豊かさは均等ではなかった。その夢は、多くの幻想を含んでいた。でも、音楽の中には、都市がまだ広がっていく感覚が残っている。それは、いまの若い世代にはむしろ新しく響くのかもしれない。未来が閉じている時代に、かつて未来が開いているように見えた音楽を聴く。このねじれ。
韓国の若者がシティポップを聴くとき、その懐かしさは、日本人の懐かしさとは違う。日本人にとっては、失われた過去。韓国の若者にとっては、経験しなかった可能性。日本人にとっては、あったけれど消えた都市。韓国の若者にとっては、最初から自分たちにはなかった都市。この違いは大きい。でも、だからこそ音楽は国境を越える。同じ曲でも、誰が聴くかで意味が変わる。
山下達郎の海辺の音楽は、日本人にとっては80年代の都市と消費の記憶かもしれない。でも、韓国の若者にとっては、競争社会の外側にある想像上の余白かもしれない。竹内まりやの声は、日本人には昭和から平成へ続くポップスの記憶として響く。でも、海外の若者には、どこにも存在しない都市の夜として響くかもしれない。音楽は、作られた時代を超えて、別の社会の欠落に入り込む。そこが面白い。そして、少し怖くもある。なぜなら、私たちは自分たちの過去を、他者の欲望によってもう一度見直すことになるからだ。
韓国の若者が日本のシティポップを懐かしむ。すると、日本人の側も、あらためて自分たちの過去を見直すことになる。あの音楽には何があったのか。なぜ今、海外で聴かれるのか。なぜ若い世代が、あの都市の空気に惹かれるのか。それは、単に曲がよいからだけではない。
もちろん曲はよい。メロディも、演奏も、アレンジも、録音も、声も、ジャケットもよい。でも、それ以上に、そこには「別の時間」がある。いまの社会には少なくなった時間。少し遅い時間。少し余白のある時間。夜がまだ長かった時間。都市がまだ未知だった時間。消費がまだ夢を持っていた時間。未来がまだ、完全には閉じていなかった時間。シティポップは、その時間を音として保存していた。
ただし、それは事実としての歴史ではない。編集された時間だ。広告のように美しい。ジャケットのように整っている。夜景のように遠い。実際の生活よりも滑らかで、少し嘘がある。でも、その嘘も含めて、人は惹かれる。都市には、いつも少し嘘が必要なのかもしれない。
現実の都市は、疲れる。混む。家賃が高い。競争がある。孤独がある。生活がある。でも、音楽の中の都市は、少しだけ軽い。車が走り、夜景が光り、恋があり、海があり、まだ帰らなくていい。その嘘の中で、人は呼吸する。韓国の若者が聴いたシティポップも、そうした嘘としての都市だったのかもしれない。でも、それは悪い嘘ではない。生きるための嘘。競争社会の外側にある、想像上の余白。実際には存在しなかったかもしれないけれど、音楽の中では確かに感じられる場所。
記憶していない都市。その都市を、韓国の若者は懐かしんだ。
そこには、アジアの近代化の奇妙な反射がある。日本がかつて見た夢。韓国が追いつき、追い越しながら抱えた疲れ。中国や東南アジアの都市が、また別の速度で変わっていく現在。そして、その中で再生される80年代日本のポップス。シティポップは、いまや日本の過去だけではない。アジアの都市が共有する、失われた余白の音になりつつあるのかもしれない。
それは、過去を懐かしむ音楽ではなく、未来が閉じた時代に、別の未来を思い出すための音楽だ。思い出す、と言っても、本当に経験したわけではない。だからこそ、代理記憶なのだ。自分の記憶ではない。でも、自分に必要な記憶。自分の過去には存在しない。でも、自分の現在を少しだけ救う記憶。そのような記憶を、音楽は作ることができる。
シティポップを聴く韓国のZ世代は、もしかすると、過去の日本を聴いていたのではない。競争社会の外側にある、まだ閉じていない都市の夢を聴いていた。Night Tempo以後のシティポップは、その夢を再編集した。日本の失われた都市が、韓国の若者の代理記憶になる。そして、その代理記憶が、また世界へ流れていく。
音楽は、国境を越える。でも、それは単にグローバルに広がるという意味ではない。ある社会の過去が、別の社会の欠落に入り込む。ある世代の記憶が、別の世代の欲望に変わる。ある都市の夢が、別の都市の息苦しさを少しだけゆるめる。そのとき、音楽はただのコンテンツではなくなる。記憶していない都市を懐かしむための装置になる。
韓国の若者が聴いたシティポップには、たぶん、その装置としての力があった。それは、単なるレトロではない。競争社会の中で生まれた、代理記憶としての都市音楽だった。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-06-28