身体が通過しない音楽は、記憶になりにくい
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Kosuke Shirako
TikTok、YouTube、サブスクの時代になって、音楽との出会いは速くなった。
知らない曲に出会う。
気になったら検索する。
関連曲が出てくる。
プレイリストに入れる。
次の曲へ行く。
とても便利だ。
昔なら絶対に出会えなかった曲に、今は数秒で届く。
海外の知らないアーティストも、古い曲も、誰かの部屋で作られた音も、ほとんど距離なしに聴ける。
でも、速くなったぶん、何かが薄くなった感じもある。
たぶんそれは、身体が音楽に出会うまでの時間だ。
昔は、音楽に出会うまでに身体があった。
渋谷まで電車で行く。
駅を出る。
街を歩く。
服屋に入る。
カフェに入る。
知らない曲が流れている。
店の隅にCD棚がある。
ジャケットを手に取る。
よくわからないけれど、気になる。
買う。
袋に入れて持ち帰る。
家で聴く。
音楽は、音だけではなかった。
その日の天気。
店の匂い。
照明。
店員の雰囲気。
自分が着ていた服。
歩き疲れた足。
買うかどうか迷った時間。
帰り道の電車。
そういうものが、曲の周りについていた。
だから、あとから曲を聴くと、音だけではなく、その場所ごと戻ってくる。
渋谷から原宿まで歩いていたこと。
夜の街をヘッドホンで歩いていたこと。
雨の日に窓の外を見ながら聴いていたこと。
CDショップではないカフェの隅で、なぜか引っかかったこと。
音楽は、記憶の中で、街や身体と一緒に保存されていた。
サブスクでは、曲はすぐに見つかる。
でも、曲に出会うまでの身体が短い。
指で触れる。
再生する。
気に入る。
保存する。
次へ行く。
もちろん、それでも音楽は残る。
今の若い子には、今の出会い方がある。
TikTokで知った曲を、YouTubeで深掘りする。
コメント欄から昔の曲へ飛ぶ。
プレイリストから知らない国の音に出会う。
それはそれで、すごい。
ただ、その曲をどこで身体に通すのか。
そこが大事なのだと思う。
TikTokで知った曲を、夜道で聴く。
YouTubeで見つけた曲を、雨の日に聴く。
サブスクのプレイリストを、通勤や通学の道に持ち出す。
同じ曲を、違う季節、違う時間、違う身体の状態で聴く。
そうすると、音楽はコンテンツではなくなる。
経験になる。
音楽は情報ではない。
身体が通過した時間だ。
だから、10年聴いていなかった曲が、今になって急にわかることがある。
若い頃はメロディとして聴いていた曲が、今は歌詞として届く。
おしゃれだと思っていた曲が、実は都市の孤独だったとわかる。
軽いと思っていたポップソングが、深刻になりすぎずに生きるための知恵だったと気づく。
その曲が変わったのではない。
聴いている身体が、時間を通過したのだ。
音楽は、すぐには意味にならない。
身体が歩き、疲れ、迷い、誰かと別れ、何かを失い、また戻ってくる。
そのあとで、ようやく意味になる曲がある。
だから、身体が通過しない音楽は、記憶になりにくい。
曲を消費することと、曲が自分の中に残ることは違う。
音楽を聴くとは、たぶん、音源を再生することではない。
自分の身体のどこかを、その音に通過させることだ。
渋谷から原宿まで歩いていた頃、そんなことは考えていなかった。
ただ、ヘッドホンで音楽を聴きながら、街を歩いていた。
服を見て、看板を見て、人を見て、店の灯りを見ていた。
でも、今になって思う。
あの時間が、音楽を記憶に変えていた。
音楽をコンテンツから経験へ戻すには、もう一度、身体が必要なのだと思う。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-05-21