日本は幸福ではなく安全を輸出しはじめた
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— 低賃金国家が、世界から選ばれる理由—
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Kosuke Shirako
渋谷を歩いていると、ときどき、自分がどこの国にいるのか分からなくなる。
中国語、英語、韓国語、フランス語。欧米から来た若者、インド系の家族、旅行者には見えない生活者らしい外国人も増えた。スクランブル交差点のような観光地だけではない。住宅地のスーパー、病院、学校、公園でも、以前より外国人を目にする。
2025年に日本を訪れた外国人は4268万3600人に達し、過去最高を更新した。2025年末の在留外国人数も412万5395人となり、初めて400万人を超えた。前年末から9.5%増えている。(日本政府観光局)
日本の人口が減少する一方で、日本を訪れ、日本に暮らす外国人は増えている。
ここには、一見すると奇妙なねじれがある。
日本人は、日本を衰退国だと語る。賃金は上がらない。円は弱い。物価と社会保険料は上がる。年金だけでは暮らせない。地方は疲弊し、少子化は止まらず、政治への不満は強い。
2026年の世界幸福度ランキングでも、日本は61位だった。(World Happiness Report)
それなのに、なぜ世界から人が来るのだろう。なぜ低賃金になった日本が、旅行先だけでなく、仕事や生活の拠点として選ばれるのだろう。
おそらく、日本人が失ったと感じているものと、外国人が日本に見つけているものが違うのである。
日本人は、所得を見ている。外国人は、安全を見ている。
夜に歩けるという資産
私は以前、ロサンゼルスに住んでいた。
夜は、気軽に歩けなかった。小さな子どもがタバコを吸っているのを見たこともある。夜中に銃声が聞こえたこともあった。
もちろん、ロサンゼルス全域が同じではない。豊かで安全な地域もあり、地域による差は大きい。それでも、どの道を通るか、何時まで外にいるか、周囲に誰がいるかを考えなければならなかった。
外へ出ると、身体が警戒モードに入る。
この感覚は、犯罪件数や所得統計だけでは伝わりにくい。
日本に戻ると、夜中でもコンビニへ歩いて行ける。子どもが一人で電車に乗る。女性や高齢者が、遅い時間に住宅街を歩いている。
日本にも犯罪はある。性犯罪、家庭内暴力、詐欺、ストーカー、闇バイト、無差別事件も存在する。安全神話によって、被害を見えなくしてはいけない。
それでも、銃撃や強盗を日常的な前提とせず、公共空間を利用できるという意味で、日本は相対的に安全な社会である。
韓国や台湾も、都市の日常安全という点では日本に近い。だが韓国には北朝鮮との軍事的緊張があり、台湾には中国との関係という地政学上の不確実性がある。
日本が完全に安全なのではない。世界の多くの場所と比較したとき、生活のなかで警戒しなければならない危険が比較的少ないのである。
夜に歩けること。子どもを公共空間へ送り出せること。他人が銃を持っている可能性を、常に計算しなくてよいこと。
これは日本人にとっては、空気のようなものだ。空気には値札が付いていない。だから、幸福として認識されにくい。
しかし一度でも、その空気がない場所で生活すると、夜に歩けることが巨大な公共資産だったと分かる。
安全とは、犯罪が少ないことだけではない。毎日、警戒に使う神経が少なくて済むことである。
日本人には停滞、外国人には割安
同じ日本でも、どの通貨で所得を得ているかによって、まったく違う国に見える。
円で給与を受け取る日本人にとって、円安は生活費の上昇である。輸入食品、電気、ガソリン、海外サービス、旅行費用が高くなる。名目賃金が上がっても、物価に追いつかなければ、使えるお金は増えない。
日本の実質賃金は2021年第1四半期から2025年第1四半期までに累計で2%低下した。2026年第1四半期には前年同期比1.7%増まで回復したものの、長期的な停滞感が短期間で消えるわけではない。(OECD)
一方、ドルやユーロで収入や資産を持つ人から見ると、日本は安くなった。
ニューヨーク、ロサンゼルス、ロンドン、パリなどと比べれば、東京は巨大都市でありながら、外食、交通、サービス、場合によっては住居費まで相対的に安い。
しかも、安いだけではない。電車が動く。水道が使える。荷物が届く。飲食店の品質が安定している。医療へたどり着ける。夜に歩ける。
日本人が「低賃金になった」と感じている同じ現象を、海外所得を持つ人は「高品質な社会が割安になった」と受け取る。
日本は、一つの国でありながら二つの価格表を持ち始めている。
国内所得で暮らす人には、高くて苦しい国。
海外所得を持ち込む人には、安くて質の高い国。
円安は、日本人には購買力の低下である。海外資産を持つ人には、日本の値下げである。アジアの一部から働きに来る人にとっては、母国より高い賃金や、安定した生活を得る機会になる。
日本は豊かになったのでも、単純に貧しくなったのでもない。誰が、どの通貨と所得で日本を利用するかによって、豊かさが分裂したのである。
幸福度と、移住先としての魅力は違う
幸福度ランキングが低い国に、なぜ人が来るのか。
この疑問は、幸福度という言葉を、国の総合点のように受け取るところから生まれる。
世界幸福度報告が基礎にしているのは、自分の現在の人生をどの程度よいものと評価するかという、生活評価の平均である。それは、その国の倫理性、安全性、外国人への開放性、移住先としての魅力を直接順位づけしたものではない。
日本人が自分の生活を評価するとき、今日生きられるかだけを見ているわけではない。
以前より賃金が伸びない。老後の制度が続くか分からない。子どもの教育費がかかる。仕事を辞めたら、同じ条件には戻れない。病気や介護が始まれば、家計が崩れるかもしれない。
安全であっても、人生を選び直すお金と時間がない。そのため、社会の基礎性能が高くても、自分の人生に高い点数を付けにくい。
一方、外国人は日本を、自国との比較で見る。
母国より治安がよい。政治的混乱が少ない。公共交通がある。子どもを学校へ通わせられる。欧米の大都市より生活費が安い。母国より高い所得を得られる。
同じ日本でも、出発地点が違えば評価は逆になる。
幸福度は、内側から感じる生活評価である。移住は、外側から比較した選択である。両者が一致しないのは不思議ではない。
日本は「幸福な国」ではなく「致命傷の少ない国」である
日本に問題がないわけではない。
低賃金、社会保険料、高齢化、少子化、介護人材不足、地方の衰退、非正規雇用、孤独、ジェンダー格差、同調圧力、外国人への言語障壁や住宅差別。問題は多い。
それでも、他国と比較すれば、生活を決定的に破壊する危険が比較的少ない。
銃撃で命を失う可能性は低い。医療費によって一度に破産する可能性も、アメリカより低い。政権批判だけを理由に拘束される可能性も低い。水道や電力が日常的に止まることも少ない。民族や宗教の対立が、そのまま街頭の暴力へ転化することも多くない。
日本は世界で最も幸福な国ではない。最も高所得な国でも、最も自由な国でもない。
しかし、安全、自由、医療、交通、文化、都市規模、生活費の組み合わせにおいて、極端な弱点が比較的少ない。
日本は、最高の国というより、生活上の致命傷が少ない国なのである。
世界が安定していたとき、この価値は目立たなかった。世界が不安定になると、急に価値を持ち始める。
世界の豊かさが、安全を保証しなくなった
かつて、移住先の価値は、所得と機会によって語られていた。
アメリカへ行けば稼げる。ヨーロッパへ行けば、社会保障と文化的な生活が得られる。中国へ行けば、巨大市場と成長に参加できる。インドへ行けば、人口と成長の勢いに接続できる。
だが現在、所得や経済成長だけでは、生活の安定を保証できない。
アメリカには高い所得と巨大な機会がある一方で、銃、住宅費、医療費、ホームレス、政治的分断がある。ヨーロッパには社会保障と文化的魅力がある一方で、戦争、エネルギー問題、移民をめぐる対立がある。中国には技術力と巨大市場がある一方で、政治的統制、不動産不況、若者の雇用問題がある。インドには成長力がある一方で、交通、衛生、都市インフラ、格差の問題がある。中東には富裕都市がある一方で、地政学的緊張や制度的制約がある。
どこか一つへ行けば、所得、自由、安全、医療、教育のすべてが手に入るほど、世界は単純ではない。
そこで移住の基準が変わる。最大の所得ではなく、生活を壊さず継続できる確率が重要になる。
日本が輸出し始めたのは、この確率である。
安全は、目に見えない公共サービスである
日本の安全は、警察だけがつくっているわけではない。
鉄道会社、学校、医療機関、自治体、清掃、物流、コンビニ、街灯、道路、厳しい銃規制、地域の習慣。それらが薄い層となって重なっている。
店舗が夜まで開いている。駅員がいる。道が照らされている。救急車を呼べる。落とし物が戻る可能性を信じられる。他人が突然武器を持ち出す可能性が低い。
こうした小さな信頼が積み重なって、身体の緊張を下げている。
外国人が日本で買っているのは、住宅や食事だけではない。 夜に歩ける時間を買っている。子どもを公共空間へ送り出せる環境を買っている。生活のたびに他人を疑わなくてよい状態を買っている。
日本は、製品を輸出する国から、日常の安全性を提供する国へ変わり始めている。
だが、安全は空中に浮いているわけではない。安全な街には、土地がある。家がある。店がある。寺がある。そこに長く住んできた人がいる。
安全を支える人ほど、余白がない
ここで注意しなければならない。
日本の問題を雑に言えば、たしかにお金の問題である。夜に出られないほど危険なのではない。水が出ないのでも、学校が存在しないのでもない。生活の基盤は動いている。
しかし、その基盤の上で働く人の財布に、お金が残らない。
清掃、物流、介護、医療、鉄道、小売、外食、行政、教育。日本の日常を止めない仕事の多くは、十分に高く評価されているとは言いにくい。
日本の苦しさは、絶対的な欠乏だけではない。
旅行する。趣味を持つ。仕事を辞めて休む。家電を買い替える。子どもの進路を選ぶ。親の介護に備える。こうした選択のための余白が減っている。
生存は守られている。だが、人生を動かす自由が縮んでいる。
日本は公共的には豊かだが、私的には余裕がない。この矛盾が、日本の低い生活評価と、外国人から見た高い魅力を同時に生んでいる。
政治は、複雑な構造を一つの敵へ圧縮する
生活が苦しいという政治批判そのものは間違っていない。
年金だけで暮らせない高齢者もいる。冷房代を節約する人もいる。食費を削る家庭もある。病気や介護によって、働けなくなる人もいる。
その苦痛を政治が拾うことには意味がある。
違和感が生まれるのは、その苦痛が、
政府が悪い
大企業が悪い
消費税が悪い
国がお金を出せば解決する
という一つの因果関係へ編集されるときである。
消費税や分配政策は重要な論点だ。だが、日本の問題はそれだけではない。人口減少、高齢化、エネルギー輸入、医療・介護人材不足、住宅供給、地域格差、産業構造、円安、世界的インフレが重なっている。
給付によって助かる人はいる。一方、介護職員が足りなければ、現金を配っても介護サービスそのものは増えない。住宅が足りなければ、住宅給付が家賃上昇へ吸収されることもある。食料やエネルギーの供給が増えなければ、需要の増加が物価に反映される可能性もある。
「国がお金を出せばすべて解決する」も、「財源がないから何もできない」も、どちらも粗い。
政治が考えるべきなのは、日本を失敗国家として描くことでも、外国よりマシだから我慢させることでもない。 すでに存在する安全資産を壊さず、その安全を支える人の所得と選択肢を増やすことである。
安全が値付けされると、日本人が買えなくなる
外国人が日本の安全に価値を見いだすほど、その安全には価格が付く。
東京、京都、大阪、福岡、北海道などでは、住宅、ホテル、飲食、教育、不動産が、海外所得を持つ人の購買力に引っ張られる。
安全な住宅地。英語で受診できる医療。外国人向け学校。長期滞在用の高級賃貸。災害対応を備えた施設。治安のよい地方都市。
これまで地域住民が共有していた安全な環境が、滞在商品や投資商品へ変わる。
すると、奇妙な逆転が起きる。
日本は安全だから選ばれる。
しかし、選ばれるほど、日本人が安全な場所へ住みにくくなる。
これは単なる観光公害ではない。安全資産の金融化である。
相続税は、家族の場所を市場へ戻す
日本の安全は、道路や鉄道だけでつくられているのではない。
長く住み続ける家族。顔を知る近隣住民。代々手入れされてきた住宅。何かあれば戻ることのできる実家。こうした場所も、地域の安定をつくっている。
だが、その場所を次の世代へ渡すとき、相続税が発生する。
日本の相続税の基礎控除は、「3000万円+600万円×法定相続人の数」である。法定相続分に応じた取得金額が6億円を超える部分には、55%の最高税率が適用される。2024年に相続税の課税対象となった死亡者の割合は10.4%だった。もちろん、すべての相続人が55%を払うわけではなく、配偶者控除や小規模宅地等の特例などによって負担は大きく変わる。(国税庁)
相続税には、富の固定化を防ぎ、世代間格差を緩和するという目的がある。親の資産だけで人生が決まる社会にしないための税として、合理性はある。
しかし地価の高い都市部では、別の問題も起こる。
家族が豪華な生活をしているわけではない。多額の現金を持っているわけでもない。ただ、祖父母や親が長年住んできた土地の評価額が高い。
相続税は原則として金銭で納めなければならない。現金を用意できなければ、土地の一部を売る。家を売る。アパートを売る。家族が集まってきた場所を、市場へ戻す。
ここで失われるのは、不動産だけではない。 正月に家族が集まった家。子どもが帰ってこられる実家。近隣との関係。病気や失業のときに戻れる場所。
家は資産であると同時に、家族にとっての小さな社会保障でもある。売れば現金になる。しかし、一度売った場所は、家族のもとへ簡単には戻らない。
売られた安全を、誰が買うのか
市場へ戻された土地を買うのは、誰だろう。
近隣の日本人かもしれない。国内の不動産会社やデベロッパーかもしれない。投資ファンドかもしれない。富裕層かもしれない。外国人や外国法人かもしれない。
ただし、「相続税を払えない日本人が土地を売り、それを外国人が大量に買っている」と一括して断定することはできない。
2025年上半期の新築マンション取得のうち、国外からの取得は東京23区で3.5%、都心6区で7.5%だった。ただし、この調査は国外居住者による新築マンション取得を対象としたもので、国内在住外国人、中古住宅、土地取引の全体を示すものではない。登記情報から国籍を完全に把握することもできない。(国土交通省)
したがって、問題を「外国人に土地を奪われる」という物語へ変えるべきではない。
本当の境界は国籍ではない。
土地を記憶として持つ人と、資産として買える人の境界である。
国内賃金で暮らす相続人が、税金や維持費を理由に土地を売る。その土地を、国内外を問わず、現金、融資能力、強い通貨を持つ者が買う。
相続人には、その土地が高く評価されるほど負担になる。海外資産を持つ買主には、円安によって割安に見える。
内側の人には、維持できないほど高い。
外側の資本には、買いやすいほど安い。
同じ土地に、二つの価格が生まれる。 これは、日本が安全を輸出する構造の、最も物理的な形である。
家が売られると、寺も残れない
家族の土地が市場へ戻るとき、失われるのは所有権だけではない。
土地に長く住む人が減れば、地域を支える関係も薄くなる。
町内会に参加する人が減る。祭りを支える人が減る。地元の商店を使う人が減る。墓を守る人が減る。寺の檀家も減る。
日本の寺は、建物だけで存在してきたわけではない。地域に住み続ける家族との関係によって支えられてきた。
誰かが亡くなれば葬儀を行う。命日には法事を行う。彼岸や盆には墓を訪れる。寺は、生きている住民と死者のあいだに置かれた、地域の時間のインフラだった。
相続のたびに家が売られ、土地が分割され、住民が入れ替われば、その関係は自動的には継承されない。
新しく土地を買った人が悪いのではない。外国人か日本人かも、本質ではない。
問題は、土地を所有する人と、その土地の記憶を引き受ける人が分かれていくことである。
土地は売買できる。だが、墓参りの習慣、寺との関係、地域の死者に対する責任までは、売買契約に含まれない。
土地の価格は上がっても、地域を維持する力は弱くなることがある。
寺が消えることは、宗教施設が一つ減ることだけではない。家族が死者に会いに行く場所がなくなること。地域の過去を保存する場所がなくなること。生きている人と、すでにいない人が同じ土地に属しているという感覚が失われることである。
土地を買う人はいても、
その土地の死者まで引き受ける人はいない。
商店は、商品だけを売っていたのではない
長く住む人が減ると、寺だけでなく商店も維持できなくなる。
八百屋、魚屋、豆腐屋、書店、喫茶店、クリーニング店、小さな電器店。
こうした店は、品物を売るだけの場所ではなかった。誰が近所に住んでいるかを知っている。高齢者が何日も来なければ気づく。子どもが一人で来ても、顔が分かる。学校、祭り、町内会との関係がある。
商店は小売業であると同時に、地域を見守る非公式なインフラだった。
だが、住民が入れ替わる。後継者がいない。仕入れや光熱費が上がる。消費が大型店やオンラインへ移る。土地や建物を相続できない。こうして個人商店が閉じていく。
閉店した店は、そのまま保存されない。複数の土地がまとめられ、再開発される。巨大モールができる。タワーマンションが建つ。チェーン店が入る。監視カメラと警備員が置かれる。共用部は清潔に管理される。
街は新しくなり、便利になり、安全になったように見える。だが、その安全は別の種類の安全である。
昔の商店街の安全は、互いに顔を知っていることから生まれていた。新しい街の安全は、監視、規約、入退館システム、警備会社、所有権によってつくられる。
関係による安全から、管理による安全へ。
商店街が消えたあとに、安全な街が完成する
巨大モールやタワーマンションそのものが悪いわけではない。老朽化した建物の更新は必要だ。耐震性や防災性能が高まり、バリアフリーが進むこともある。住宅供給も必要である。
問題は、再開発が街の更新ではなく、街の入れ替えになるときだ。
元から住んでいた人は、相続税、固定資産税、管理費、建て替え費用に耐えられない。個人商店は、新しいテナント料や施設の規格に適応できない。土地をまとめて買えるのは、デベロッパー、企業、投資家、富裕層、国内外の資本になる。
そして完成した安全な街には、元の住民が戻れない。
その街を安全にしてきた人が、
安全になったあとの街には住めない。
古い街には、所有権や決済以外の参加方法があった。店主と話す。店先で立ち止まる。祭りを手伝う。顔を覚えてもらう。用事がなくても通る。
新しい街では、参加の条件が明確になる。住戸を買う。テナントを借りる。商品を購入する。会員になる。利用規約に同意する。
街との関係が、顔なじみ、習慣、記憶から、所有、契約、決済、認証へ変わっていく。
タワーマンションは、街を小口の金融商品に変える
タワーマンションは住宅である。実際にそこで眠り、子どもを育て、生活する人がいる。だが、住むためだけのものではない。
賃貸収入を得るために買う人がいる。値上がりを期待して買う人がいる。資産分散のために買う人がいる。法人が保有することもある。相続対策として利用されることもある。短期間保有し、価格が上がったところで売る人もいる。
部屋は、生活空間であると同時に、売却可能な資産になる。
国土交通省も、新築マンションの短期売買や国外からの取得について調査し、日本人か外国人かを問わず、実需に基づかない投機的取引は好ましくないとの考えを示している。
商店街や低層住宅があった土地がまとめられる。そこに巨大な建物が建つ。建物の内部が、数百の住戸へ分割される。一室ごとに価格が付き、登記され、売買可能になる。
家は、住むための場所だった。
タワーマンションの一室は、住むこともできる金融商品になる。
かつて一つの家族や商店が長く引き受けていた土地が、多数の区分所有権へ分解される。土地との関係は、記憶や習慣ではなく、持分、価格、管理費、修繕積立金、売買契約によって表される。
街が、小口化されるのである。
家族の場所は売られ、相続資産として買い直される
ここには、奇妙な逆転がある。
古い家を相続した家族は、相続税や維持費を払えず、土地を売ることがある。その土地が再開発され、マンションになる。完成した一室を、別の誰かが資産運用や相続のために買う。
家族の場所は、相続できずに売られる。
売られた土地につくられた部屋は、相続資産として買われる。
家族にとって、その土地は帰る場所だった。デベロッパーにとっては、開発可能な面積である。完成後の購入者にとっては、価格が動く一室になる。
家族の記憶が、開発利益を経由して金融資産へ変換される。
相続税が富の固定化を防ごうとする一方で、家族が持ち続けられなくなった土地を、より大きな資本が取得する。
結果として起きるのは、富の解体だけではない。土地の再集約である。小さな所有が市場へ戻され、大きな資本によってまとめられ、再び小口の金融商品として販売される。
所有者がいても、土地に住む人がいるとは限らない
タワーマンションでは、所有者と居住者が同じとは限らない。
所有者が貸し出し、別の人が住む。法人が所有し、社員が利用する。遠方や国外に住む人が保有する。誰も住まず、売却時期を待つ場合もある。
もちろん、投資目的で買われた住戸が、賃貸住宅として誰かの生活を支えることもある。投資目的だから、ただちに地域を壊すという話ではない。
しかし、所有と居住が分かれると、土地への責任も分かれる。
所有者は資産価値を見る。居住者は契約期間だけ暮らす。管理会社は建物を管理する。デベロッパーは販売後、次の開発へ移る。
その土地に長く住み、寺、商店、学校、祭り、近隣住民との関係を引き受ける主体が見えにくくなる。
建物の人口は増える。だが、土地に住み続ける人が増えるとは限らない。
タワーマンションは人口を収容する。
しかし、地域の時間まで収容するわけではない。
安全は、公共財から投資利回りへ変わる
タワーマンションが売っているのは、床面積や眺望だけではない。
駅に近いこと。街が清潔であること。学校や病院があること。治安がよいこと。災害対策が施されていること。オートロックや警備があること。住所にブランドがあること。
つまり、日本社会が長年築いてきた安全と利便性が、住戸価格へ組み込まれている。
地域の人々が税金を払い、働き、道路を整え、鉄道を動かし、学校や病院を維持し、商店や寺を支えてきた。その蓄積が、再開発によって「安全な立地」という投資価値へ変わる。
安全は、公共財としてつくられ、
不動産価格として私有化される。
価格が上がれば、そこで暮らしたい人より、資産として保有できる人が有利になる。
日本人か外国人かだけの問題ではない。強い通貨、金融資産、融資能力を持つ人が買える。一方、その街を長く支えてきた住民や商店主は、新しい価格では戻れない。
日本は安全を輸出し始めただけではない。安全を生んできた土地を分割し、投資商品として販売し始めたのである。
古い街では人が人を見ていた
商店街では、店主が子どもの顔を知っていた。高齢者が何日も来なければ、誰かが気づいた。寺には家族の死者がいた。町内会には、災害時に声をかける関係があった。
新しい街では、その機能が設備へ置き換わる。
防犯カメラ。オートロック。顔認証。警備会社。管理規約。宅配ボックス。管理アプリ。
安全そのものは、むしろ強化されるかもしれない。しかし、安全のつくられ方が変わる。
古い街では、人が人を見ていた。
新しい街では、カメラが人を見ている。
関係による安全から、管理による安全へ。
新しい街は清潔で、便利で、効率的で、投資しやすい。だが、顔の見える商店、檀家、祭り、立ち話、用事のない滞在といった、価格を付けにくい関係は消えていく。
用事のない人が、居続けにくくなる。買い物をしない高齢者。騒ぐ子ども。居場所のない若者。ホームレス。規格に合わない小さな商売。
誰かが明示的に禁止しなくても、管理された空間から自然に排除されていく。
安全である。清潔である。便利である。そして、規則に適応し、支払い能力を持つ人だけが残りやすい。
これは衛生社会の一つの姿である。
日本の安全には、排除という裏側がある
日本の安全を、無条件に礼賛してはいけない。
日本の秩序は、しばしば息苦しさと一体である。
周囲に迷惑をかけないこと。空気を読むこと。規則から外れないこと。不快なものを見えない場所へ移すこと。曖昧なものを禁止せず、存在しにくくすること。
日本の安全は、暴力の少なさによってだけでなく、逸脱を抑える社会的圧力によっても維持されてきた。
街は清潔で、犯罪は少ない。その一方で、ホームレス、貧困、性産業、外国人、障害者、騒音、依存症などが、見えない場所へ押し出されることもある。
安全は善である。だが、誰にとっての安全なのかは問わなければならない。
外国人を増やすなら、日本社会は安全という商品を提供するだけでは済まない。言語、住宅、教育、医療、宗教、労働権、差別への対応を整える必要がある。
外国人を安全な空間へ招きながら、その秩序の正式な構成員として扱わないなら、日本は外貨と労働力だけを受け取り、社会参加を拒む国になる。
日本が失いつつあるのは、安全そのものではない
一連の変化を並べると、こうなる。
相続税や維持費によって、家や土地が売られる。長期居住者が減る。寺、墓、商店、祭りが維持できなくなる。土地が集約される。巨大モールとタワーマンションが建つ。住宅が区分所有され、金融商品になる。所有者と居住者が分離する。地域がつくっていた安全が、設備と管理による安全へ変わる。日本の安全が不動産価格へ組み込まれ、国内外の資本へ販売される。
日本は、安全を失っているのではない。安全のつくり方を、関係から管理へ変えている。
昔の街がすべてよかったわけではない。閉鎖的な人間関係もあった。よそ者への排除もあった。古い建物には災害リスクもあり、個人商店が不便なこともあった。
新しい街がすべて悪いわけでもない。防災性、利便性、住宅供給、バリアフリーは改善する。
問題は、古い街から新しい街へ移る過程で、何を失ったのかが会計されないことである。
土地の価格は計算される。建物の収益も計算される。税収も計算される。だが、寺との関係、商店主の見守り、家族が戻れる場所、地域の死者、祭りを支える人、長く住むことによって生まれる信頼には、価格が付かない。
価格の付かないものは、再開発の収支表から消える。
何も起きないことを、誰が支えているのか
かつて日本は、テレビ、自動車、カメラ、半導体を輸出した。その後、アニメ、ゲーム、食、観光、キャラクターを輸出するようになった。
次に輸出されるのは、目に見える製品ではないかもしれない。
夜に歩けること。子どもが電車に乗れること。水道が出ること。荷物が届くこと。医療へたどり着けること。暴力や政変を毎日恐れずに済むこと。
つまり、何も起きないことである。
何も起きないことは、退屈に見える。成長や興奮を感じにくい。幸福度の質問にも反映されにくい。
だが、世界の不確実性が増すほど、何も起きない社会は希少になる。
戦争、銃、政治的分断、インフレ、気候災害、詐欺、医療崩壊、インフラ障害。世界のどこにも完全な避難先はない。
そのなかで日本は、最高の国ではなくても、生活が突然破壊されにくい国として選ばれる。
しかし、「何も起きない」は、何もしなくても維持される状態ではない。
駅員がいる。看護師がいる。清掃員がいる。介護職員がいる。配達する人がいる。店を開ける人がいる。地域を見守る人がいる。寺や墓を守る人がいる。
安全は、無人の制度が自動的につくっているのではない。誰かの仕事と、誰かの長期的な責任によってつくられている。
その人たちの賃金が低く、家を相続できず、地域に住み続けられないなら、安全の基盤そのものが痩せていく。
幸福ではなく、継続可能性
日本人は、日本を幸福な国だとは感じていない。それは、おそらく間違いではない。
安全であっても、所得が少なく、選択肢がなく、将来に希望を持てなければ、幸福とは言いにくい。
一方、外国人が日本を選ぶのも間違いではない。世界の他の場所と比較すれば、日本にはまだ、生活を壊さずに続けられる可能性がある。
この二つは両立する。
日本人には、人生を動かすお金が足りない。
外国人には、人生を守る環境が見えている。
さらに日本人には、その環境を相続し、維持するための現金も足りない。
安全が値上がりすると、日本人は住めなくなる。相続が発生すると、日本人は持ち続けられなくなる。商店や寺が消えると、地域の関係が維持できなくなる。市場へ戻された安全を、より強い資本が買っていく。そして再開発された安全は、タワーマンションの価格、管理費、投資利回りとして売られる。
これは、外国人が悪いという話ではない。タワーマンションが悪いという話でもない。相続税を単純に廃止すればよいという話でもない。
問題は、日本人が長い時間をかけてつくった安全な場所を、日本人自身が継承しにくくなっていることである。
土地を買う人はいる。部屋に投資する人もいる。新しい店もできる。建物は新しくなる。人口も増える。資産価値も上がる。
それでも街は、以前より薄くなることがある。
土地の記憶を引き受ける人がいない。死者を守る人がいない。顔を覚える店主がいない。長くそこに住み、次の世代へ渡す人がいない。
日本が失いつつあるのは、安全そのものではない。安全を共同でつくる人と、土地に長く責任を持つ人である。
日本は、幸福ではなく安全を輸出し始めた。
だが、その安全を誰がつくり、誰が所有し、誰が購入し、誰がそこから退出するのか。
日本が次に問われるのは、そこだ。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-07-18