鳥でも人でもないものが、家族を少し直す

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— 『クジマ歌えば家ほろろ』と、信じる前に一緒に暮らすこと —

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Kosuke Shirako

うちの子供と奥さんが、あるアニメにハマっている。

『クジマ歌えば家ほろろ』。

最初にタイトルを見たとき、少し妙な感じがした。クジマ。歌えば。家ほろろ。意味が分かるようで、分からない。でも、なんとなく耳に残る。たぶんこれは、作品の中にいる「クジマ」という存在そのものに近い。

クジマは、鳥のようでもある。でも、鳥ではない。人のようにしゃべる。でも、人でもない。ペットのようにも見える。でも、ペットと言い切ると少し違う。家族でもない。客でもない。妖怪でもない。AIでもない。ただ、家の中にいる。

この「分類できないものが、家の中に入ってくる」という感じに、少し引っかかった。

普通、家というものは、分類でできている。父がいて、母がいて、子供がいる。リビングがあり、台所があり、寝室がある。食事の時間があり、学校の時間があり、仕事の時間がある。家族は自由なようでいて、けっこう役割で動いている。父は父らしく。母は母らしく。子供は子供らしく。

もちろん、そんなに単純ではない。けれど、家の中には、見えない決まりごとがたくさんある。誰がごはんを作るのか。誰が片づけるのか。誰が怒るのか。誰が黙るのか。誰が気をつかうのか。家族というのは、愛情の場所であると同時に、役割が積み重なった場所でもある。

そこに、クジマが入ってくる。

鳥でも人でもないものが、ある日、家の中にいる。これは、かなり大きな出来事だと思う。でも、作品の面白いところは、クジマが世界を救うわけではないところだ。大事件を起こすわけでもない。巨大な謎があるようで、でも、物語はまず生活のほうへ進んでいく。

ごはんを食べる。しゃべる。歌う。鳴く。寝る。そこにいる。ただそれだけで、家の空気が少し変わっていく。ここがいい。

異物が入ってきたとき、普通の物語なら、家族は混乱する。その正体を探る。排除するか、保護するか、利用するかを考える。でも、クジマの場合は、もっと生活に近い。

「これは何なのか」より先に、「とりあえず、何を食べるのか」が来る。

この順番が、すごく大事だと思う。

人間は、分からないものに出会うと、すぐに名前をつけたくなる。分類したくなる。危険なのか、安全なのか。役に立つのか、立たないのか。味方なのか、敵なのか。でも、生活はもう少し鈍い。分からなくても、お茶を出す。分からなくても、ごはんを用意する。分からなくても、同じ部屋にいる。生活には、分類より前に、受け入れてしまう力がある。

クジマは、そこに入ってくる。

ここで、少し思い出した漫画がある。浅野いにおの『おやすみプンプン』だ。

『クジマ歌えば家ほろろ』と『おやすみプンプン』は、まったく違う作品に見える。片方は、家にやってきた謎の生き物をめぐるホームコメディ。もう片方は、少年の内面がゆっくりと壊れていく、かなり重たい物語だ。でも、よく考えると、二つの作品には似た構造がある。どちらにも、人間の形をしていない存在が出てくる。

プンプンは、人間であるはずなのに、鳥のような、落書きのような姿で描かれる。クジマは、鳥のようでもあり、人のようでもあるけれど、やはりどちらでもない。

この「人間ではない形」が、ただのキャラクターデザインではないところが面白い。

プンプンのフォルムは、読者が自分の主観を投影するための余白になっている。彼が何者なのか。何を感じているのか。これからどう壊れていくのか。読者はその空白に、自分の感情を入れてしまう。だから、プンプンは人間のように描かれない。むしろ、人間の形をしていないからこそ、読者は彼を自分の中に引き受けてしまう。

一方で、クジマもまた、分類できない存在として家の中に入ってくる。鳥でもない。人でもない。ペットでもない。客でもない。だから、家族はクジマをどう扱えばいいのか、すぐには分からない。でも、分からないまま、ごはんを食べさせる。分からないまま、同じ空間にいる。分からないまま、少しずつ生活の中に入れていく。

ここが、プンプンとの大きな違いだと思う。

プンプンは、内面の不安や信仰や孤独を引き受ける器だった。クジマは、家庭の空気や沈黙や役割をゆるめる存在だ。

プンプンの非人間性は、読者を内面へ沈めていく。クジマの非人間性は、家族を生活へ戻していく。

どちらも、人間ではない形をしている。でも、プンプンは「人間とは何か」を暗く問い詰める。クジマは「人間だけで家族をやっていなくてもいい」と、少し軽く言ってくれる。これは、かなり大きな違いだ。

『おやすみプンプン』では、人は何かを信じなければ生きていけない。神様、運命、現実、罪悪感、自分自身。登場人物たちは、それぞれ違うものを信じている。だからすれ違う。だから傷つけ合う。だから、誰かを完全には理解できない。

信仰とは、外にあるものではなく、自分の内面が作り出したものなのかもしれない。そう考えると、プンプンに出てくる神様も、愛子の信じる運命も、幸の信じる現実も、それぞれの人間が世界に耐えるために作った形だと言える。

クジマには、そこまで強い信仰の匂いはない。

クジマは、何かを信じろとは言わない。救いを与えるわけでもない。世界の真理を語るわけでもない。ただ、いる。

この「ただ、いる」ということが、むしろ重要なのだと思う。

プンプンの世界では、人は何かを信じようとして壊れていく。クジマの世界では、まだ信じる前に、一緒に暮らしてしまう。

名前をつける前に、食卓に座る。意味を決める前に、声を聞く。正体を暴く前に、家の中に場所ができる。それは、信仰よりも前にある生活の力だ。

自分は、浅野いにお的な世界観と、木皿泉的な世界観のどちらにも惹かれる。

浅野いにおは、人間の主観や信仰や孤独を、かなり深いところまで掘っていく。人は完全には分かり合えない。信じるものを間違えると壊れてしまう。自分の中で作った物語が、自分も他人も傷つけてしまう。

一方で、木皿泉の世界では、人は壊れていても、今日のごはんを食べる。誰かと変な会話をする。世界は救われないかもしれないけれど、生活のほうが先に続いてしまう。

浅野いにおが世界の底を見に行く人だとしたら、木皿泉はその底にちゃぶ台を置く人なのかもしれない。

『クジマ歌えば家ほろろ』は、その二つのあいだにあるように見える。鳥でも人でもない存在が家に入ってくるという設定には、浅野いにお的な不穏さがある。けれど、その存在を解剖したり、信仰にしたり、恐怖に変えたりするのではなく、とりあえず一緒に暮らしてしまうところに、木皿泉的な生活の強さがある。

分からないものを、分からないまま置いておく。

これは簡単なようで、かなり難しい。

今の社会は、分からないものをそのままにしておくのが苦手だ。すぐに名前をつける。属性をつける。カテゴリに入れる。意味を決める。役に立つかどうかを判断する。人間もそうだ。子供もそうだ。作品もそうだ。AIもそうだ。自分自身でさえ、すぐに何者かであろうとしてしまう。

でも、家の中には、本来もっと分類できないものがある。子供の変なこだわり。奥さんの好きなアニメ。自分が妙に気になってしまう古い機械。家の隅に置かれたままの本。昔の音楽。誰にも説明できないプロジェクト。それらは、何の役に立つのかすぐには分からない。でも、そこにあることで、家の空気を少し変えている。

クジマは、その象徴のように見える。役に立たない。分類できない。説明できない。でも、いる。そして、いることで、家族の役割が少しずれる。

父は父である前に、ひとりの人になる。母は母である前に、ひとりの人になる。子供は子供である前に、何かを感じている存在になる。

家族というのは、近すぎる他人の集まりでもある。どれだけ一緒にいても、相手の中にあるものを全部見ることはできない。夫も、妻も、子供も、親も、完全には分からない。それでも、一緒に暮らす。完全に理解できない人たちが、同じ場所で食べて、寝て、話して、黙っている。

その意味では、家族の中には、もともとクジマがいるのかもしれない。

説明できないもの。役に立たないもの。でも、なぜか捨てられないもの。そこにあるだけで、空気を少し変えるもの。

クジマは外から来た異物に見える。でも、本当は、家族の中に最初からあった未分類の部分を、見える形にした存在なのかもしれない。

だから、うちの子供と奥さんがこのアニメにハマっているのを見て、なんだかいいなと思った。何者なのか分からないものが、家にいる。説明できないものが、生活に混ざる。それによって、家族の空気が少し変わる。

これは、今の時代の感覚にかなり近い。

AIも、ペットも、ぬいぐるみも、ゲームのキャラクターも、アバターも、子供の想像上の友達も、人間ではないけれど、生活の中に入ってくる存在だ。それらは、家族ではない。でも、家族の会話を作ることがある。人間ではない。でも、人間の感情を動かすことがある。そして、ときどき、家族の中にある固まった役割を、少しだけほどいてくれる。

もちろん、すべての異物がやさしいわけではない。すべての未分類の存在が、家庭を救うわけでもない。分からないものを受け入れることには、怖さもある。でも、分からないものをすべて排除してしまう家は、たぶん少し息苦しい。

家には、少し意味の分からないものがあったほうがいい。

変な置物。古い本。誰も使っていない機械。子供の作った工作。説明できないぬいぐるみ。家族の誰かだけが好きなアニメ。妙に耳に残る歌。

そういうものが、家を単なる住居ではなくしている。

クジマが歌う。家がほろろと鳴る。

その音は、壊れる音ではない。固まっていたものが、少しほどける音なのだと思う。

人は、何を信じればいいのか分からない時代に生きている。大きな物語も、社会の約束も、将来の安心も、あまり信用できない。それでも、すぐに信仰を作らなくてもいいのかもしれない。

分からないものに名前をつける前に、それが何者なのか決める前に、とりあえず一緒に暮らしてみる。同じ部屋で、同じ時間を過ごしてみる。声を聞いてみる。ごはんを食べてみる。少しだけ、家の中に場所を空けてみる。

信じる前に、一緒にいる。

『クジマ歌えば家ほろろ』の面白さは、そこにあるのだと思う。


© SHIRO & Co.

First published: 2026-06-28