北山耕平の後に、虹はまだ残るのか

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Kosuke Shirako

その日、私は曽我部恵一さんの文章を読んでいた。「いい匂いのする方へ」。その言葉に導かれるように、本棚の中から北山耕平さんの『自然のレッスン』を取り出した。

青い表紙に、赤いリンゴ。そこには英語で、THE TEACHINGS OF NATURE と書かれている。自然のレッスン。なんでもない本のように見える。けれど、こういう本は、ある日突然、なんでもなくなくなる。

ページをめくると、昔の自分がそこにいる。その本を買ったときの部屋の空気や、当時の不安や、まだ言葉になっていなかった関心が、紙の匂いと一緒に戻ってくる。

そして、その流れの中で、北山耕平さんの訃報を知った。曽我部さんから北山さんへ。匂いから自然へ。音楽から本へ。生きている人の文章から、亡くなった人の言葉へ。なんだかね、と思う。こういうことがあるから、本は捨てられない。こういうことがあるから、偶然はただの偶然では済まなくなる。

北山耕平さんが亡くなられた。2026年3月26日、享年76歳。

少し前には、漫画家のつげ義春さんの訃報にも触れていた。『無能の人』、『ねじ式』。何もしない人。流れていく人。社会の中心から外れてしまった人。そのすぐ近くで、北山耕平さんの名前も静かに流れてきた。こういう知らせが重なると、ひとりの人が亡くなった、というだけでは済まなくなる。何かの時代が、音もなく畳まれていく。

本棚の奥にあったはずの一冊が、いつの間にか現実の側から消えてしまう。それでも、そこに書かれていた言葉だけが、こちら側に残る。

北山耕平さんについて、私は体系的に語れるほど詳しいわけではない。けれど、名前はずっと知っていた。そして、その名前には、ある匂いがあった。アメリカ・インディアン、虹の戦士、大地、空、火、祈り、古い知恵、滅びるもの、残されるもの。こう書くと、いまでは少しスピリチュアルな消費の言葉に見えてしまうかもしれない。けれど、北山さんが扱っていたものは、そういう軽い癒やしの言葉ではなかったと思う。

それは、もっと切実なものだった。近代の速度から外れてしまったもの。資本主義のカタログに載らなかったもの。都市の会議室では説明しにくいけれど、人間が生きるうえで本当は失ってはいけなかったもの。北山さんは、それを日本語に移した人だった。

翻訳者というより、媒介者だったのだと思う。別の大陸で語られていた言葉を、ただ日本語に置き換えたのではない。その言葉が持っていた風、湿度、沈黙、火の匂いのようなものを、日本語の中に通そうとした。それは簡単なことではない。言葉は、意味だけを運ぶものではない。言葉は、世界の見方そのものを運んでしまう。だから、ある言葉を訳すということは、別の世界の入り口を開けることでもある。

『自然のレッスン』の目次を見ると、三つのレッスンに分かれている。こころのレッスン、からだのレッスン、食べもののレッスン。

自然という言葉から、私たちはすぐに森や山や川を思い浮かべてしまう。けれど、この本の自然はもっと近い。こころにある。からだにある。食べものにある。つまり自然とは、どこか遠くに行けば出会えるものではなく、すでに自分の生活の中に入り込んでいるものなのだ。むしろ、私たちのほうが、それを見失っている。

自然に帰る、という言い方がある。けれど本当は、帰るべき自然は外側にあるのではなく、毎日の食事、眠り、疲れ、呼吸、気分、身体の声の中に、ずっとあったのかもしれない。自然のレッスンとは、森に行くことだけではない。何を食べるか、どう眠るか、どこを歩くか、誰と話すか、何を見ないようにするか、どの光の方へ顔を向けるか。それらすべてが、自然のレッスンなのだと思う。

ページをめくると、奥の方に、こんな言葉があった。

この本は とりあえずいまの生活を もうすこしましな方に 変えたいと考えているひとの 役に立つことを願って つくられました。

私はここで、少し止まってしまった。人生を変える、ではない。世界を変える、でもない。正しく生きる、でもない。いまの生活を、もうすこしましな方に変える。この「もうすこしまし」という言い方の中に、北山耕平さんの思想の温度がある気がした。

人は、いきなり救われない。いきなり目覚めない。いきなり自然と一体になったりもしない。ただ、今日の生活を、昨日より少しだけましな方へ向けることはできるかもしれない。食べるものを少し変える。歩く場所を少し変える。読む本を、聞く音楽を、眠る前に見るものを少し変える。怒りを抱えたまま、少しだけ黙ってみる。世界を全部変える前に、自分の生活の角度を少しだけ変える。

その程度のこと。けれど、たぶん、その程度のことしか本当には始まらない。大きな思想は、ときどき人を遠くへ連れていく。でも、生活を少しましな方に変える言葉は、人をここに戻す。北山さんの言葉は、そういう場所にあった。空や大地や虹を語りながら、着地しているのは、いつも生活だった。そこがいい。

もう一つ、印象に残った言葉がある。

You can't wake a person who is pretending to be asleep.(寝たふりをしている人を起こすことはできない。)

ネイティブ・アメリカンのことわざとして紹介されることが多い言葉だ。この言葉は、いまの時代にとても刺さる。本当に眠っている人なら、起こせるかもしれない。まだ知らない人なら、伝えられるかもしれない。見えていない人なら、見える場所まで案内できるかもしれない。けれど、見えているのに見ない人がいる。知っているのに知らないふりをする人がいる。起きているのに、眠っているふりをする人がいる。その人を起こすことはできない。

これは、絶望的な言葉でもある。けれど同時に、ある種の境界線を教えてくれる言葉でもある。人は、人を無理やり目覚めさせることはできない。他人の認識を、外側から強制的に変えることはできない。こちらがどれほど真実だと思っているものでも、相手が眠ったふりを選んでいるなら、その人の前で叫び続けても、たぶん何も変わらない。

だからこそ、言葉は祈りに近づく。説得ではなく、祈り。啓蒙ではなく、火を残すこと。誰かを起こすためではなく、いつか誰かが目を開けたときに、そこにまだ小さな光があるようにしておくこと。北山耕平さんの仕事は、そういうものだったのではないかと思う。世界を変えるための大きな号令ではなく、火を絶やさないための翻訳。正しさを勝たせるための言葉ではなく、別の生き方がかつて存在したことを忘れないための言葉。

北山さんが残した言葉の中に、こんな一文もあった。

今日という日は、ぼくたちに残された人生の最初の日だ。

これは、ただの励ましの言葉ではない。普通なら、今日という日は残りの人生の一日であり、終わりに向かって減っていく時間の一部だ。けれど、この言葉では、今日が「最初の日」になる。残された人生の、最初の日。そこには、終わりと始まりが同時にある。死を知っているからこそ、今日が始まる。残りがあるからこそ、最初が生まれる。すべてが有限だからこそ、今日という日が、もう一度こちらに返ってくる。

これは、私が最近ずっと考えている「ゼロ」の感覚にも近い。ゼロは、単なる無ではない。終わりでもない。意味が立ち上がる前の沈黙であり、すべてが削られたあとに残る、始まり直すための場所でもある。北山さんの言葉には、そのゼロの近くに立っている感じがある。死を遠ざけるのではなく、死を見つめる。けれど、そこに絶望だけを置かない。終わりを見たうえで、今日を最初の日として引き受ける。それは、強い。そして、やさしい。

『虹の戦士』という言葉も、いま見ると不思議だ。虹は、触れられない。つかめない。そこにあるようで、そこにはない。けれど、見えるときには確かに見える。空気中の水滴と光の角度が合ったときだけ、虹は現れる。つまり虹は物体ではなく、関係によって立ち上がる現象である。

これは、意味に似ている。意味もまた、そこに固定物としてあるわけではない。誰かの言葉、誰かの記憶、ある日の天気、身体の状態、死者の知らせ、昔読んだ本、忘れていた音楽。それらがある角度で重なったときに、ふっと立ち上がる。虹は所有できない。けれど、見ることはできる。意味も所有できない。けれど、受け取ることはできる。

北山耕平さんのあとに、虹はまだ残るのか。たぶん、虹そのものは残っている。問題は、虹を見る目のほうなのだと思う。私たちは、虹を見ることができなくなっているのではないか。あるいは、虹を見ても、すぐに写真に撮り、投稿し、説明し、消費してしまう。虹を虹のまま受け取る前に、コンテンツにしてしまう。それは、北山さんが伝えようとしていた世界とは、かなり遠い場所にある。

けれど、完全に失われたわけではないとも思う。誰かが亡くなったとき、言葉が残る。誰かが本を開く。誰かがその一文を投稿する。誰かがそれを見て、ふと立ち止まる。その一文を読んだ人の中で、何かが少しだけ向きを変える。それだけで、虹はまだ残っているのかもしれない。

虹は、大きな運動として残るのではない。制度として残るのでも、正典として残るのでもない。むしろ、断片として残る。誰かの投稿の中に。古い本のページに。翻訳された一文に。思い出した名前に。亡くなった人への短い訃報に。そして、それを読んだあとに訪れる、ほんの少しの沈黙の中に。

北山耕平さんは、ひとつの世界の通訳者だった。その世界は、たぶん、もう近代の中心には戻らない。けれど、中心に戻らないからこそ、残るものがある。森の奥、本棚の隅、古い雑誌、小さな出版社、誰かの記憶、消えそうな言葉。そして、見ようとする人にだけ見える虹。

寝たふりをしている人を起こすことはできない。でも、まだ起きようとしている人のために、火を残すことはできる。まだ見ようとしている人のために、虹の方角を指すことはできる。まだ聞こうとしている人のために、古い言葉を日本語の中に置いておくことはできる。そして、いまの生活をもうすこしましな方に変えたいと思う人のために、一冊の本を残すことはできる。

こころのレッスン、からだのレッスン、食べもののレッスン。自然は、外側の遠い場所にあるのではない。自分の生活の中にある。自分の身体の中に、自分の食卓の上に、自分の疲れの中に、自分の怒りの中に、自分の眠れない夜の中にある。だから、自然のレッスンとは、世界から逃げることではない。むしろ、生活に戻ることだ。

北山耕平さんのあとに、虹はまだ残るのか。残っていると思う。ただし、それは、空に大きく架かる虹ではないかもしれない。誰かの言葉の端に残る、小さな光。死者が残した一文の中に、ふっと現れる色。本棚から偶然取り出した一冊の中にある、昔の自分からの手紙。曽我部さんの文章から北山さんの本へとつながってしまう、水脈のようなもの。今日という日を、もう一度、最初の日として見直すための角度。その角度を失わないかぎり、虹はまだ残る。

そして、今日という日は、やはり、ぼくたちに残された人生の最初の日なのだと思う。


© SHIRO & Co.

First published: 2026-05-21