5月は、理由を説明しない

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— 魚喃キリコ、曽我部恵一、そして思い出せない夜のこと—

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Kosuke Shirako

魚喃キリコさんの文章を読んでいたら、曽我部恵一さんの名前が出てきた。ユリイカの魚喃キリコ特集をめくっていると、曽我部さんの「5月」という曲のことが書かれていて、ああ、ここも繋がっていたのか、と思った。それは大げさな発見ではなく、部屋の中でなくしていた鍵が、なぜか昔のコートのポケットから出てきたような感じだった。漫画と歌、線と声、台所とギター、煙草の煙と五月の空気。別々の場所にあったものが、実は同じ湿度の中にあったのだと、あとからわかることがある。

魚喃さんは、曽我部さんの「5月」を聴きながら、昔の夜を思い出している。下北沢の居酒屋、魚料理の美味しい店のカウンター、友人たち、二軒目のバー、流れていた曲。そして、誰かが泣いていたこと。でも、その涙の理由ははっきりしない。悲しかったのか、寂しかったのか、ただ酔っていただけなのか、何かを思い出したのか、それとも特に理由なんてなかったのか。文章は、その理由を説明しようとしない。そこがいい。

人生には、理由がわからないまま残る場面がある。誰かが泣いていて、自分はそれを見ている。言葉をかけるほど近くもなく、無関係でいられるほど遠くもない。その場にいたことだけが、妙に身体に残っている。あとになって思い出すのは、会話の内容ではない。テーブルの上の缶、店の明かり、隣の人の横顔、流れていた曲、夜の帰り道の空気。思い出すのは、いつもそういうものばかりだ。

曽我部さんの歌には、そういう時間がある。何かを強く説明するのではなく、説明される前の時間を、そのまま置いておく。サニーデイ・サービスの歌にも、曽我部さんのソロにも、街、部屋、午後、夜、恋人、友だち、季節、駅、光、風といった、ごく普通のものが出てくる。でも、それは単なる日常の描写ではない。日常が、あとから思い出になってしまう、その直前の感じ。まだ何も終わっていないようで、実はもう終わりはじめている感じ。その場にいるときには気づかないのに、あとで振り返ると、あれは人生の一場面だったのだとわかる感じ。

魚喃キリコさんの漫画にも、それがある。『blue』でも、『南瓜とマヨネーズ』でも、人は何かを大きな言葉で語る前に、ただ部屋にいる。煙草を吸い、ごはんを作り、恋人と話し、黙り、泣き、出ていき、そして戻ってこない。事件は起きている。でも、事件としては描かれない。むしろ、事件になる前の生活の濁りが描かれている。好きなのか、嫌いなのか。終わったのか、まだ続いているのか。大丈夫なのか、もうだめなのか。その曖昧な時間を、魚喃さんの線はそのまま受け止める。だから、魚喃さんが曽我部さんの「5月」を思い出すことは、とても自然に思える。どちらも、人生を決定的な場面としてではなく、あとでしか意味がわからない断片として扱っているからだ。

そして、たぶん、そこに「5月」という季節がある。5月は、不思議な月だ。春のようで、もう春ではない。夏の手前にいるけれど、まだ夏ではない。新しい生活が始まったばかりなのに、少し疲れが出てくる。明るいのに、どこか心細い。4月ほど始まりではなく、6月ほど湿ってもいない。5月は、何かが始まったあとに、その始まりが本当に自分のものだったのかを、少しだけ疑いはじめる月なのかもしれない。だから「5月」という歌は、明るいだけでも、懐かしいだけでもない。そこには、理由のない寂しさがある。

魚喃さんの文章に出てくる夜も、そうだ。何か大きな出来事があったわけではない。ただ、店があり、人がいて、曲が流れて、誰かが泣いていた。でも、そういう夜のほうが、なぜか長く残る。記憶は、重要な順番に残るわけではない。卒業式や結婚式や入社式のような、名前のついた出来事よりも、何でもない夜の、誰かの表情のほうが残ってしまうことがある。あのとき、なぜあの人はあんな顔をしていたのか。なぜ自分は何も言えなかったのか。なぜあの曲だけを覚えているのか。答えはない。でも、答えがないから、歌になり、漫画になり、文章になる。説明できるものは、たぶん、書かなくてもいい。説明できないものだけが、何度も戻ってくる。

魚喃キリコさんの漫画は、その説明できないものを、説明しないまま描いている。曽我部恵一さんの歌も、その説明できないものを、説明しないまま歌っている。だから、この二人が繋がっていたことは、偶然というより、もともと同じ場所を見ていた人たちが、別々の方法で記録していた、ということなのだと思う。それは、若さの記録でもある。ただし、きれいな青春ではなく、もっと散らかったものだ。台所に缶があり、部屋に洗濯物があり、財布にお金がない。恋人とうまくいかず、友だちが泣いている。誰かの才能がまぶしくて、自分はまだ何者にもなれていない。それでも、夜は続く。店を出て、二軒目に行く。曲が流れて、朝になる。そういう時間の中に、人はいた。いま振り返ると、それはもう戻れない時間だ。でも、戻れないからこそ、歌は残り、漫画は残る。

魚喃さんのページを読んでいて思ったのは、曽我部さんの「5月」は、ただの曲ではなく、記憶の保存形式なのだ、ということだった。写真では残らないものがある。日記にも書かれないものがある。会話としても再現できないものがある。でも、ある曲を聴くと、その場の空気だけが戻ってくる。完全には戻らない。むしろ、戻らないことを思い知らされる。それでも、一瞬だけ、あの夜の輪郭が浮かぶ。誰がいたのか、何を話したのか、どうして泣いていたのか。細部は曖昧なままなのに、その場に漂っていた感情だけは、妙に正確に戻ってくる。音楽とは、そういうものなのかもしれない。記憶を正しく保存するものではなく、記憶の間違い方を、許してくれるもの。

魚喃キリコさんの漫画も、きっとそうだ。正しい人生の記録ではない。うまく言えなかった気持ち、途中で途切れた会話、言わなかった言葉、理由のない涙。そういうものを、正しくないまま残してくれる。だから人は、何年も経ってからまた読み、また聴く。そして思う。あの頃の自分は、何をしていたのだろう。あの人は、今どこにいるのだろう。あの夜は、何だったのだろう。たぶん、答えは出ない。でも、答えが出ないことのほうが、人生には多い。

5月は、理由を説明しない。魚喃キリコさんも、曽我部恵一さんも、理由を説明しない。ただ、そこに人がいたこと、夜があったこと、曲が流れていたこと、誰かが泣いていたこと。それだけを、そっと残している。そして、こちらは何年もあとになって、その断片にもう一度出会う。ああ、ここも繋がっていたのか、と思う。本棚の上で、ページの中で、歌の中で。5月の少し手前の、静かな午後に。


© SHIRO & Co.

First published: 2026-06-09