身体は、価値の源泉か、意味の媒介か
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— AI時代に、誰とどの時間を選ぶか —
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Kosuke Shirako
AIが誰の顔でも、どんな身体でも、望むままに映像として生成できる時代になった。美しい画像は、もう「その人」である必要がない。そう聞いたとき、ふと立ち止まった。自分の身体を、誰かに選ばれる身体として生きてきた私たちにとって、それは祝福なのか、それとも別の何かなのか。
ある会話がきっかけで、私はこの問いを深く考えることになった。Fantiaのような月額制のファンクラブから話は始まり、やがてAIが映像を生成する時代、身体を「見せる」仕事と「触れる」仕事の違い、結婚や子育てを選ぶ意味へと広がっていった。その狭間で、こう問い直す必要があるのかもしれない。本物の身体は、まだ価値があるか——より正確には、身体は価値の源泉なのか、それとも意味の媒介なのか。
いま、何が起きているのか
身体を商品とする経済は、もう珍しいものではない。月額制のファンクラブ形式で、クリエイターがコンテンツを提供し、視聴者が対価を払う。国内にはFantia、myfans、pixivFANBOX、Ci-enがあり、海外にはOnlyFansやFanslyがある。日本では刑法175条によりモザイクが義務づけられる一方、海外では無修正が主流だ。そのため、日本人クリエイターのなかには、より自由な表現を求めてOnlyFansへ移る人も増えている。元AV女優の沖田杏梨がOnlyFansで活動していることは、その一例として報じられた。国境を越えて、身体を「見せる」仕事は、ひとつの産業として成立している。
そこに、AIが割り込んできた。SoulGenやZenCreatorといったツールを使えば、実在しない人物のヌードや、特定の誰かに似せた映像さえ生成できる。ディープフェイクは、本人の同意なく顔を流用されるプライバシー侵害や、真偽の区別がつかなくなる問題を引き起こしつつも、技術は止まらない。美とエロスの境界は曖昧になり、表現の自由と規制のあいだで、社会は揺れている。
AIが奪うのは「希少性」だ。完璧な身体の映像は、もう珍しくない。けれど、AIが奪えないものがある。時間の共有だ。誰かと同じ瞬間を、同じ場所で、ともに過ごすこと。それは、生成できない。
女性は、ずっと「見られる身体」として生きてきた。体型、肌、髪、年齢——選ばれるための基準は、時代とともに変わりながらも、常にそこにあった。いま、その選び合いはマッチングアプリやSNSを通じて行われる。PairsやTinderでプロフィール写真を選び、Instagramで自分を演出し、Xで発信する。誰と出会い、誰に選ばれるかは、画面のなかの「自分」が握っている。AIが「完璧な身体」を量産する今、その基準はさらに複雑になっている。脅威として語られることも多い。けれど、同じ変化のなかには、別の可能性も潜んでいる。物理的接触を伴わずに収益化できる。年齢に依存しない自己演出が可能になる。匿名性を確保したまま、身体を媒介にした表現や仕事に携われる。恐怖の物語だけでなく、主体性の物語も、そこにはある。自分らしさと、選ばれやすさのあいだで、私たちはどう立っていればいいのだろう。
アジアも含めたグローバルの動向
この現象は、日本だけの話ではない。アジアを含む世界を見渡すと、規制の厳しさも、プラットフォームの広がり方も、国や地域によって大きく異なる。
日本では刑法175条によりモザイクが義務づけられ、2024年には映像送信型性風俗特殊営業の届出が個人単位で必須化された。届出なしの営業には罰則がある。韓国は表現規制が厳格で、創作物にも及ぶ広い規制がある。中国ではアダルトサイトへのアクセスそのものが制限され、成人向けコンテンツの配信は事実上難しい。シンガポールでは、わいせつな画像の送信や共有に禁錮刑が科される。一方、台湾は比較的緩やかだと言われ、東南アジアも国によって差がある。欧米ではOnlyFansやFanslyが本拠とし、無修正コンテンツが主流の市場が成立している。
そのため、アジアのクリエイターのなかには、規制の厳しい国内プラットフォームを離れ、海外サービスへ活動の場を移す人も増えている。日本人がOnlyFansに進出する動きは、その一例だ。AI生成コンテンツやディープフェイクへの対応も、国ごとに分かれる。欧州ではAI規制法制の整備が進み、アジアでも韓国やシンガポールなどで規制強化の動きがある。
私たちが身体をどう見せ、どう守るかは、住む国や地域の法と文化に強く縛られる。グローバルなプラットフォームが国境を越えて広がる一方で、身体をめぐるルールは、いまもローカルなまま残っている。
「身体性」ではなく「時間の拘束度」——序列のもう一つの軸
その会話のなかで、興味深い整理がなされていた。エロスには序列がある、と。いちばん「リアル」なのは、デリヘルや風俗のように身体を伴う直接的な接触。次に、AIによって生成されたコンテンツ。そして、FantiaやOnlyFansのようなプラットフォーム上で「見せる」だけのコンテンツが、その下に位置する、というのだ。
けれど、その序列を「身体性」の軸で測るだけでは足りないかもしれない。身体の本質は「触れられること」ではなく、「時間を共に消費すること」にある、という視点がある。風俗も、結婚も、子育ても、実は身体より「時間の拘束度」で差が出ている、と。
風俗は時間限定だ。決められた枠のなかで、身体を共有する。OnlyFansやFantiaは疑似時間——録画された映像を見ることで、あたかもその場にいるような体験を買う。そのあいだに、マッチングアプリやSNSを通した出会いがある。プロフィールで選び、メッセージでつながり、会うか会わないかを決める。会えば時間限定の関係になるかもしれないし、長期の時間共有へと育つかもしれない。あるいは、ずっと画面のなかだけで、疑似のつながりにとどまることもある。結婚は長期の時間共有。同じ屋根の下で、日々を重ねる。親子は不可逆な時間だ。産んだら戻せない。子どもは、過去にも未来にもつながる、取り消しのきかない関係である。
序列は、身体性ではなく、時間の不可逆性の序列かもしれない。限定された時間、疑似の時間、長期共有の時間、不可逆の時間——その度合いが、私たちが何に価値を感じ、何に意味を見出すかを決めている。
実際、デリヘルで働く人の平均月収は60〜70万円と言われる。一方、プラットフォームのクリエイターは、ファンが600人超えても月10〜30万円程度という試算もある。トップ層に限れば月数百万円に達する人もいるが、大多数はそうではない。収益の差には、身体のリアルさだけでなく、時間の拘束度——どれだけ本物の時間を共有しているか——が関わっているのかもしれない。
だとすれば、問いはこうなる。身体は価値の源泉なのか、それとも意味を媒介するものなのか。時間を共に過ごすことのなかで、私たちは何を選び、何を手放すのか。
関係を選ぶ、ということ
もうひとつ、会話から浮かび上がってきたのは、「二極化」という未来だった。身体を伴うエロスを選ぶとき、そこには二つの道がある。関係性を伴うか、伴わないか。パートナーや配偶者という「つながり」を選ぶか、あるいは関係性のない身体の売買やコンテンツを選ぶか。選択するのは、結局のところ人間だ。たとえば、結婚して子どもを持つ道を選ぶ人もいれば、プラットフォームで自分の身体を商品化する道を選ぶ人もいる。マッチングアプリで出会った相手と交際を重ね、やがて結婚する人もいれば、同じアプリで気軽な関係を繰り返す人もいる。SNSで知り合った人と深くつながることもあれば、フォロワーとの疑似関係で満足する場合もある。どれも「身体」と「時間」を軸にしているが、不可逆な関係を選ぶか、取引可能な関係を選ぶか、その境界は曖昧になりつつある。
関係性を選ぶことには、プラス面とマイナス面がある。パートナーや子どもというつながりを選べば、孤独に抗う支えが得られ、老後や病気のときにも頼れる人がいる。時間を共有し、記憶を積み重ねる喜びもある。一方で、相手に縛られ、自分を削って合わせる負担も生まれる。離婚や別れのリスク、子どもを育てる経済的・精神的コストも重い。関係性を選ばない道には、自由と自立がある。自分の身体を自分の意思で扱い、取引可能な関係は必要に応じて終わらせられる。けれど、深いつながりのないまま歳を重ねる寂しさや、いざというときに頼れる人がいない不安もついてまわる。どちらを選んでも、得るものと失うものがある。
そして、その先には「子供」と「夫婦」というレイヤーがある。結婚し、子どもを持つことは、不可逆な関係だ。離婚はできても、親子の関係は消えない。やり直しがきかない。AIがもっと浸透し、身体の代替が当たり前になれば、その重い選択を選ぶ人は、さらに減っていくのではないか——そんな指摘があった。少子化が加速する背景には、こうした「選ばれにくさ」もあるかもしれない。
人間には死がある。親は過去を、夫婦は現在を、子どもは未来を象徴する。有限な時間のなかで、私たちは何に投資し、何を残そうとするのか。AIが希少性を奪っても、時間の共有は奪えない。その問いは、AIの有無に関係なく、ずっと私たちについてまわってきた。
それでも不可逆な時間を選ぶか——未来への問い
最後に、ひとつだけ問いを返したい。もし未来に、AIが完全な触覚・温度・匂いまで再現できるようになったとき、それでも「不可逆な時間」を選ぶ人は残るだろうか。それとも人間は、可逆性へと流れていくのだろうか。
ある人は、こう答えた。不可逆な時間を選ぶ人は残る。ロジックとしての帰結ではなく、身体的な違和感、嫌悪感に根ざすものだ、と。それは人間のDNAに組み込まれているのかもしれない。完全に安全な合成食よりも自然食を好む。偽物と分かると途端に魅力が落ちる。人間は合理性だけで動いていない。身体の奥にある、進化的な回路がそうさせる。
AI時代に残る価値は「身体」そのものではなく、「不可逆なリスクを共有すること」なのではないか、という指摘もある。子どもを持つことは戻れない。結婚するとは生活が絡み合う。老いを共にするとは未来を賭ける。これは効率の悪い選択だ。けれど、相手がリスクを負っていない、失うものがない、いつでもリセットできる——そんな関係性に、私たちはどこか違和感を覚える。危険を伴うからこそ「本物」の感覚が生まれる。
子どもを持つことについて、別の視点があった。身体レベルで「似ている」と、感覚や思考や態度が「似ている」。自分の分身としての強い感覚が根ざす。人工的に「人間」が作れるとしても、それは「自分」と強い関係性を伴った人間ではない。重要なのは、生物学的な構造よりも、生成過程への身体的関与。人は結果だけでなく、プロセスに執着する。子どもを持つことは、自分が壊れることだ。そして壊れたあと、新しい自己が生まれる。AIとの関係は自己を壊さない。子どもは壊す。
もうひとつ、興味深い言葉があった。AIは最適な「自分」の「子」は作れるが、「ノイズ」は作れない、と。ノイズとは、予測できない癖、遺伝の偶然、説明のつかない情緒——設計から漏れたもの。子どもが心を掴むのは「自分に似ている」瞬間ではなく、「自分と違う」瞬間かもしれない。そのズレが他者性を生み、関係を生む。ノイズは痛みの源であり、同時に意味の源だ。そしてノイズは「環境」から発生する。その子が見るもの、食べるもの、出会うもの。環境は有機体のように変わる。予測不能性は、予測できない。
死は存在の条件だ。不死になれば、逆説的に「生」の意味が失われる。老いは、意志と身体がズレるプロセス。「気持ち」は変わらないが「肉体」は変わる。その過程はプログラムできない。生とは、劣化を含み、死へ向かう曲線かもしれない。哲学者は途中で死んだ。だからこそ問いは次世代に引き継がれ、飛躍が生まれた。一人の人間が同一思考で大きな問いを扱い続けることは、創造性を欠く。死がなくなれば、つまらなくなる。
可逆性の文明と、不可逆性の文明。どちらに賭けるか。その問いは、私たち一人ひとりの手のなかにある。
選ぶのは、私たち
AIが何を作り出そうと、身体を持ち、関係を結び、時間のなかを生きるのは、私たちだ。身体が価値の源泉なのか、意味の媒介なのか——その答えは、誰かが決めることではなく、私たちが誰と、どれだけの時間を共有するかを選ぶことによって、形づくられていく。
完璧な映像が量産される時代だからこそ、不完全で、儚く、それでもそこに在る身体——自分の身体、誰かの身体——に、私たちはまだ意味を見出せる。マッチングアプリのプロフィールに何を載せるか、インスタにどの自分を見せるか、SNSで誰とつながるか。パートナーにしか見せない肌があるか、子どもを産むか産まないか。そうした日々の選択の積み重ねが、誰と時間を共有し、どの程度の不可逆性を引き受けるかという大きな判断につながっていく。その判断は、これからも私たちの手のなかにある。
最後に、一段踏み込んでおきたい。「選ばれる身体」から「選ぶ身体」へ。AI時代は、実は女性の選択権が拡張する可能性をはらんでいる。物理的接触を伴わずに収益化できる。年齢に依存しない自己演出が可能になる。匿名性を確保したまま、身体を媒介にした表現や仕事に携われる。脅威として語られる変化の裏側で、主体性を手にする道も開かれている。誰に選ばれるかではなく、誰を選び、何を選ぶか。その問いを、私たちは手放さなくていい。
本物の身体は、まだ価値があるか。身体は、価値の源泉か、意味の媒介か。答えは、あなたが誰と、どの時間を選ぶかによって、決まっていく。
完
© SHIRO & Co.
First published: 2026-03-02