フォーチュンクッキーは、2010年代の盆踊りだった
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Kosuke Shirako
AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」は、よくできた曲だと思う。
一見すると、明るいアイドルソングである。片思いの歌、少し自信のない女の子の歌。でも、どこか前向きで、踊れて、みんなで口ずさめる歌だ。ただ、この曲が面白いのは、単に「明るい」からではない。むしろ、よく聴くと、この曲には少しだけ不安がある。好きな人がいる。でも、自分は選ばれないかもしれない。相手には別の誰かがいるかもしれない。自分には魅力がないのかもしれない。でも、それでも未来はまだわからない。
この「まだわからない」という感覚が、フォーチュンクッキーという比喩に入っている。フォーチュンクッキーは、割ってみないと中身がわからない。そこに入っている言葉が、良いものなのか、悪いものなのか、意味があるのか、ただの冗談なのか、割る前にはわからない。未来もそうだ。好きな人が振り向いてくれるかどうかは、まだわからない。人生がどう転がるかも、まだわからない。自分が思っているほど悪い方向には行かないかもしれない。
この曲は、無理に希望を押しつけてこない。「絶対に大丈夫」とは言わない。「夢は叶う」とも言い切らない。「努力すれば報われる」と説教もしない。ただ、未来はまだ割ってみないとわからない、と言う。そこがいい。
そして、この曲が本当に強かったのは、歌詞やメロディだけではない。踊れたことだ。しかも、完璧に踊らなくてもよかった。ここが大事だと思う。プロのダンサーのための振付ではない。アイドルだけが踊れるものでもない。企業の人も、自治体の人も、学校の生徒も、商店街の人も、海外の人も、少し練習すれば踊れた。完璧ではなくても、参加できた。
この「参加できる」ということが、2010年代のポップソングとして、とても大きかった。音楽は、聴くものから、踊って参加するものになった。もちろん、音楽と踊りの関係は昔からある。祭りも、盆踊りも、歌謡曲も、アイドルも、ダンスミュージックも、身体と切り離せない。でも「恋するフォーチュンクッキー」は、その関係を、インターネットと動画の時代にもう一度立ち上げた曲だったと思う。
誰かが踊る。それを撮る。動画にする。別の誰かが見る。自分たちも踊る。また動画になる。歌が、身体を通じて広がっていく。それは、単なるバズではなかった。少なくとも、あの曲には、みんなが少しずつ参加できる余白があった。上手く踊れなくてもいい。少し照れていてもいい。会社の会議室でも、役所のロビーでも、学校の体育館でも、商店街でも、海外の街角でもいい。場所を選ばず、人を巻き込むことができた。
その意味で、「恋するフォーチュンクッキー」は、2010年代の盆踊りだったのかもしれない。盆踊りは、プロのための踊りではない。うまい人もいれば、下手な人もいる。子どももいれば、お年寄りもいる。見よう見まねで輪に入る人もいる。誰かが中心にいるようで、でも中心は一人ではない。輪ができ、身体が同じリズムに乗る。うまく踊ることより、そこにいることが大事になる。
「恋するフォーチュンクッキー」も、そこに近かった。AKB48というアイドルグループの曲でありながら、曲がアイドルの身体だけに閉じていなかった。ファンだけのものにもならなかった。社会のあちこちで、別の身体に移っていった。そこが面白い。
AKB48は、アイドルを「見るもの」から「参加するもの」へ変えた部分がある。握手会、総選挙、劇場、公演、投票、応援。ファンは、ただ遠くからスターを見るだけではなく、何らかの形でその物語に参加する。その延長線上に、「恋するフォーチュンクッキー」の踊りがあった。でも、この曲の場合、参加したのはファンだけではなかった。会社員も、学生も、自治体職員も、街の人も、踊った。つまり、アイドルポップが一度、社会の身体に広がった。
ここに、現代の民俗っぽさがある。民俗というと、古いもの、地方のもの、伝統的なものを思い浮かべるかもしれない。でも、民俗は必ずしも過去にだけあるわけではない。人々が同じ歌を共有し、同じ振りを覚え、同じタイミングで身体を動かす。それを撮影し、見せ合い、また別の場所で繰り返す。それは、かなり現代的な民俗だと思う。「恋するフォーチュンクッキー」は、アイドルソングであり、動画時代の参加型コンテンツであり、同時に小さな祝祭でもあった。
もちろん、そこにはマーケティングもプロモーションも、商業的な設計もある。でも、それだけでは説明できないものがあった。なぜ、あれほど多くの人が踊ったのか。たぶん、完璧でなくてもよかったからだ。そして、未来がまだわからなかったからだ。
片思いの歌なのに、そこには社会全体の不安も少し入っていた気がする。自分は選ばれるのか。この先うまくいくのか。未来は開けているのか。努力すれば報われるのか。自分の順番は来るのか。でも、その問いを深刻にしすぎない。フォーチュンクッキーを割るように、少しだけ笑ってみる。少しだけ踊ってみる。未来はまだ決まっていない、と身体で確認する。そこがこの曲の強さだった。
重くない。でも、軽すぎない。明るい。でも、不安を知らない明るさではない。踊れる。でも、踊ることで何かをごまかしているだけでもない。むしろ、踊ることで、不安を少しだけ身体の外に出している。
これは、盆踊りにも似ている。盆踊りは、死者のための踊りでもある。夏の夜に、人々が輪になって踊る。そこには、楽しさだけではなく、帰ってくるもの、去っていくもの、季節の終わりの気配もある。「恋するフォーチュンクッキー」は、もちろん死者の歌ではない。でも、どこかで、人々が同じリズムに乗り、同じ振りを踊り、未来への不安を一時的に祝祭へ変えるという意味では、かなり盆踊りに近かった。
現代の盆踊り。それは、やぐらの周りではなく、YouTubeの中で起きた。商店街だけではなく、企業や学校や自治体でも起きた。浴衣ではなく、制服やスーツや作業着で踊られた。でも、身体はちゃんとそこにあった。
音楽は、身体が通過して初めて記憶になる。「恋するフォーチュンクッキー」は、まさに身体が通過した曲だった。聴いた曲というより、踊った曲。見た曲というより、参加した曲。だから、今も覚えている人が多いのだと思う。
フォーチュンクッキーは、割ってみるまで中身がわからない。未来もそうだ。でも、わからないまま、少し踊ることはできる。完璧ではなくても、輪に入ることはできる。不安なまま、笑うこともできる。2010年代のどこかで、この曲はそれを教えていた。アイドルポップの顔をして、片思いの歌の顔をして、小さな祝祭の顔をして。「恋するフォーチュンクッキー」は、現代の盆踊りだった。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-06-02