思想は身体を隠す
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— 『ワン・バトル・アフターアナザー』と、正義に混ざる欲望について —
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Kosuke Shirako
正義を語る人の顔が、少し怖いときがある。
もちろん、正義そのものが怖いわけではない。差別に反対すること。暴力に抗議すること。不当な権力を疑うこと。弱い立場に置かれた人の側に立とうとすること。それらは、必要なことだと思う。
けれど、ときどき、そこに別のものが混ざっているように見える。怒り。興奮。承認欲求。支配欲。被害者でいることの快感。加害者を見つけたときの、妙な高揚。
正義の言葉は、とても整っている。だからこそ、その奥にある身体の動きが見えにくくなる。
二村ヒトシさんが映画.comのコラムで取り上げていた『ワン・バトル・アフターアナザー』に、引っかかったのはそこだった。記事では、この映画が政治思想の対立だけでなく、セックスや親子関係、人間のどうしようもなさを描く作品として読まれている。ポール・トーマス・アンダーソン監督、レオナルド・ディカプリオ主演のこの映画は、元革命家の男と娘をめぐる追走劇であり、トマス・ピンチョン『ヴァインランド』から着想を得た作品とされている。
けれど、重要なのは筋書きではない。
革命家。軍人。父。娘。思想。性。逃走。執着。それらが、きれいに整理されたテーマとして並ぶのではなく、ひとつの身体の中でぐちゃぐちゃに絡み合っていることだ。
人は思想で動いているように見える。でも、本当にそうなのだろうか。思想は、あとから貼られたラベルなのかもしれない。先にあるのは、もっと生々しいものだ。
誰かに認められたい。自分が間違っていないと信じたい。傷つけられたことを、いつまでも正当化したい。自分の弱さを、世界の悪に変換したい。愛されなかった記憶を、革命や国家や正義の形にして語りたい。
思想は、その身体を隠す。
政治的な言葉は、身体を立派に見せる。倫理的な言葉は、欲望を清潔に見せる。社会的な言葉は、個人的な傷を普遍的な問題に変換する。
それ自体が悪いわけではない。人間は、そうしなければ生きられないところがある。自分の怒りを、ただの怒りとして抱えるのは難しい。自分の劣等感を、劣等感のまま見つめるのは苦しい。自分の性欲や嫉妬や支配欲を、そのまま認めるのは怖い。だから人は、それを思想にする。正義にする。物語にする。そして、そこで少し救われる。
けれど、同時に危うくもなる。なぜなら、思想になった欲望は、自分では欲望だと気づきにくいからだ。
ただ誰かを叩きたいだけなのに、社会のためだと思ってしまう。ただ自分が選ばれたいだけなのに、革命のためだと思ってしまう。ただ誰かを支配したいだけなのに、秩序のためだと思ってしまう。ただ傷ついた自分を保護したいだけなのに、弱者の代表になった気がしてしまう。
そこに、正義の怖さがある。正義は、人を強くする。でも、その強さは、ときどき自分の身体を見えなくする。
SNSを見ていると、そのことをよく感じる。誰かが炎上する。誰かが謝罪する。誰かが批判される。誰かが正しい側に立つ。そのたびに、言葉はものすごい速さで整っていく。
これは差別だ。これは搾取だ。これは老害だ。これは加害だ。これは無自覚だ。これは構造の問題だ。
もちろん、その指摘が正しい場合もある。むしろ、多くの場合、そこには本当に見過ごされてきた問題がある。けれど、それでも気になる。
その言葉を打っている指は、なぜ少し速いのか。その批判を投稿したあと、人はなぜ少し気持ちよさそうなのか。誰かが失敗したとき、なぜタイムラインは少し明るくなるのか。
正義が、娯楽になっている。もっと言えば、正義が身体の快楽になっている。
これは政治の話だけではない。企業の理念にもある。ブランドのパーパスにもある。DEIにもある。AI倫理にもある。サステナビリティにもある。
言葉はどんどん正しくなる。資料はどんどんきれいになる。ビジョンはどんどん高くなる。でも、その組織の身体はどうなのか。
本当に人を大切にしているのか。それとも、人を大切にしているように見せたいだけなのか。本当に変わろうとしているのか。それとも、変わっている側に見られたいだけなのか。本当に責任を取るつもりがあるのか。それとも、責任という言葉でリスクを管理しているだけなのか。
思想は、企業にも使える。理念は、身体を隠す。
AI時代には、この問題はさらに深くなる。なぜなら、これからは誰でも、正しい文章を書けるようになるからだ。倫理的な声明文。丁寧な謝罪文。多様性に配慮した採用ページ。人間中心のAIポリシー。社会課題に寄り添うブランドメッセージ。いくらでも作れる。しかも、とても自然に、かなり上手に。
でも、文章が正しいことと、身体が正しいことは違う。
AIは、言葉を整える。けれど、身体までは整えない。怒っている人の怒りを、立派な文章にすることはできる。支配したい人の支配欲を、マネジメントの言葉に変えることはできる。傷ついた人の復讐心を、社会正義の言葉に変えることもできる。
だからこれから必要になるのは、文章を読む力ではなく、身体を見る力なのかもしれない。
その人は、何に興奮しているのか。その組織は、何を怖がっているのか。そのブランドは、誰に愛されたいのか。その正義は、誰を救おうとしているのか。そして、誰を罰したがっているのか。
『ワン・バトル・アフターアナザー』が面白いのは、政治を描いているからではないと思う。政治の下にある身体を描いているからだ。
革命の身体。国家の身体。父親の身体。男の身体。娘を守ろうとする身体。執着する身体。逃げる身体。正義を語りながら、実は自分の欲望に振り回されている身体。
そこには、きれいな人間はいない。でも、だからこそ信用できる。
人間は、そもそもきれいではない。正義を語るときでさえ、かなり汚れている。愛しているときでさえ、支配したがっている。守りたいときでさえ、自分を救いたがっている。怒っているときでさえ、どこかで気持ちよくなっている。
それを見ないふりをすると、思想はすぐに暴力になる。逆に、それを見つめられるなら、思想は少しだけやわらかくなる。
自分の正しさの中に、欲望が混ざっていること。自分の批判の中に、快感が混ざっていること。自分の優しさの中に、支配が混ざっていること。自分の怒りの中に、寂しさが混ざっていること。
それを認めることは、正義を捨てることではない。むしろ、正義を人間のサイズに戻すことだと思う。
正義は、神のものではない。人間のものだ。だから、汗をかく。欲情する。嫉妬する。間違える。老いる。疲れる。みっともなくなる。それでもなお、何かを守ろうとする。
そのくらいの正義でいいのかもしれない。
完璧な思想ではなく、自分の身体の危うさを知っている思想。誰かを裁く前に、自分がなぜ裁きたがっているのかを一度だけ見る思想。正しさの言葉を発する前に、その言葉の奥で、自分の身体が何を欲しがっているのかを聞く思想。
思想は身体を隠す。だから、身体のほうを見る。
そこにたぶん、AI時代の倫理も、ブランドの態度も、社会の違和感も、人間のどうしようもなさも、全部、少しだけ出てしまう。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-06-27