How to Liveは、答えではなく問いである
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Kosuke Shirako
阿部芙蓉美の『How to Live』を聴いている。
タイトルだけを見ると、それはひとつの答えのように見える。How to Live。どう生きるか。けれど、この曲を聴いていると、そこにあるのは答えではないと思う。むしろ、答えになりきらないまま、身体の中に残り続ける問いである。
生き方とは、誰かが教えてくれるものではない。本にも、映画にも、SNSにも、人生相談にも、たしかにたくさんの言葉はある。でも、それらは最終的な答えではない。それは、ある季節にだけ鳴る音のようなものだ。ある夕方にだけ、ふいに思い出される声のようなものだ。暑さが少しだけ弱まり、8月の終わりの気配がどこかに混じりはじめる頃、理由もなく立ち上がってくるものだ。
どう生きるか。その問いは、大きな声では来ない。革命のスローガンのようには来ないし、人生を変える決断のようにも、すぐには見えない。もっと小さく、もっと頼りない。けれど、消えない。
阿部芙蓉美の声には、その小ささがある。声が前に出すぎず、何かを断言せず、世界を動かそうともしない。でも、そこにある。
その「そこにある」という感覚が、音楽にはとても大事なのだと思う。強く主張するものではなく、いつの間にか自分のそばに置かれているもの。気づいたら、こちらの呼吸の速度を変えているもの。
『How to Live』というタイトルは強い。けれど、曲そのものは強くない。そこがいい。強いタイトルに弱い声が乗り、大きな問いに小さな身体が向き合っている。その不均衡の中に、この曲の美しさがある。
生き方という言葉は、すぐに重くなる。思想にもなり、自己啓発にもなり、キャリアにも、ライフスタイルにもなる。でも、本当はもっと曖昧なものではないか。朝、起きられるか。誰かに返事をするか。今日は外に出るか。この道を歩くか。もう少し黙っているか。いまはまだ、決めないでおくか。生き方は、そういう小さな選択の中にある。そして、その多くは、あとから振り返っても意味がわからない。
なぜあの時、あの曲を聴いていたのか。なぜその季節に、その声が必要だったのか。なぜ何年も経ってから、急に思い出すのか。説明はできない。でも、身体は覚えている。
音楽が記憶になるのは、情報として保存されるからではない。身体のどこかを通過するからだ。その時の空気、部屋の暗さ、歩いていた街、誰にも言えなかった気持ち。それらが音と一緒に結びついて、あとからふいに戻ってくる。
『How to Live』には、革命前夜のような気配がある。けれど、それは政治的な革命ではない。世界が変わる前夜というより、自分の中の何かが、まだ言葉にならないまま変わりはじめる前夜である。何かが終わりそうで、でも何が終わるのかはわからない。何かが始まりそうで、でもそれが祝福なのか喪失なのかもわからない。
8月の終わりに似ている。夏がまだ残っているのに、もう夏ではない。光は強いのに、影の長さだけが少し変わっている。世界は同じ顔をしているのに、自分だけが少し先に、終わりの匂いに気づいてしまう。そういう時、人は「どう生きるか」と考える。
けれど、その問いにすぐ答えを出してしまうと、たぶん何かを取りこぼす。答えは便利で、人を動かし、説明しやすい。でも、問いは人を止め、すぐに進ませず、沈黙をつくる。そして、その沈黙の中でしか聞こえない音がある。
阿部芙蓉美の『How to Live』は、その沈黙の側にある音楽だと思う。生き方を教えてくれる曲ではない。正しい道を照らしてくれる曲でもない。むしろ、道の手前で立ち止まらせる。ここから、どうするのか。本当に、そちらへ行くのか。まだ、何か聞こえていない声があるのではないか。そんなふうに、問いだけを残していく。それでいいのだと思う。
生き方は、決定されるものでも、完成するものでも、誰かに見せるための姿勢でもない。季節の中で何度も揺れながら立ち上がるもの。身体の中を通過した音や、失われた時間や、言えなかった言葉によって、少しずつ形を変えるもの。
How to Live。それは答えではない。問いである。そして、問いのままであることに耐えるために、音楽があるのかもしれない。
© SHIRO & Co.
First published: 2026-05-22